致命
2024.06.11
「来ないでくれ」
世界で俺の次に強い男が、細い体を縮こまらせて、俺に背を向けている。
「こんな情けない顔っ、見られたくない……」
水色に染めた髪をぐしゃぐしゃと掻き乱しながら、奴は涙声を絞り出した。
俺はそんなの見ても別に構わないし、俺には何度だって見せてもいい。いや。何度もは、流石に止めてほしいが。
茹だるように暑い小屋の中。独りで文字通り頭を抱えている頭脳派の男。こいつとの腐れ縁……付き合いも長いが、こんなのは初めて見た。奴の静止の言葉を無視し、俺は小屋の奥に足を踏み入れる。
「ヤク切れでも起こしたのか」
暑いだけじゃなくとんでもなく重い空気に、言葉を紡ぐのさえ躊躇われるが、俺はやっと口を開く。
「さっき、お前の部下たちが俺の元にこぞって来た。……一体何があったんだ?」
そのときは流石に身構えたが、あいつらは誰も敵意を持っていなかった。
ボスの傍にいてやってほしい。
確かに奴らはそう言った。
すぐに只事じゃないと理解した。
「……兄弟が。俺の兄弟が……殺されたんだ」
……そうか。お前が血を分けた、大切な家族が。
お前のように嘆き悲しまない人間の方が稀だろう。屑が蔓延るこの世界であっても。
「そうだったのか。……無理もない」
俺はこんなとき、なんて言葉を掛けてやればいいか分からない。いつもだったら思ったことをそのまま口にする勢いだが、鈍感な俺なりに脳みそを使って必死に考えた。
「こんな世の中だ。命がゴミのように粗野に扱われる。でも、死んだその兄弟がどうしようもなく大切だったってことは、時間を共にしていたお前にしか分からないから。だからお前は、今は少し休んで……」
「お前は分かってない!兄弟は俺の全てだった!」
「俺は兄弟さえいれば!あとは何もいらなかったのに……!」
思ってもいない言葉が、降りかかった。
汗が滲むほど暑いのに、鋭い刃物が骨の隙間に滑り込むように冷たい感覚がしたあと、赤い血が溢れ出るように頭の中が熱くなってきた。
「お前には分からないよ、兄弟は……」
奴は顔を少しもこちらに向けず、半狂乱に何かを叫んでいるが、耳に水が入ったみたいに上手く聞こえない。
お前も、言うほど分かってないよ。
お前は苦しみの最中で、目の前の俺を見据えようともしていない。他人の気持ちに鈍い俺でさえ分かる。俺の気持ちは二の次、いや、それ以下。
非情に振る舞いながらも変なところで情に厚いお前が、自分の感情しか見えないまま喚いているところなんて俺は見たくなかった。
俺に、助けを求めろよ。……冷めて、そんなことさえ言う気が失せた。
お前みたいに、自分の醜い感情がすっかり見えなくなればいいのに。
「もういい……!うんざりだ!俺が正気を失ったら、お前の手で殺してくれっ……!兄弟がいない世界なんて、生きていく価値すら、ない、耐えられない、から……!」
お前の目の前にいる男は、この世界にお前がいるからこそ生きていられるのに?
ああ、そうかよ。
俺一人だけでもこの場では冷静を保っていなきゃいけないのに、利己的な感情が血管を通ってドロドロと全身を駆け巡るのを止められない。
時に、馬鹿になるのは大事だ。馬鹿になれば、エロ本が通貨になり、死体が辺りに転がる世界だって生き抜けないこともない。
だがお前には、ここまでには成り下がってほしくなかった。
「俺以外にも山ほどいんだろ。お前の息の根を止めてくれるヤツはよ」
ヤクや食料の取引をする、都合のいいお得意先。自分を慕う優秀な部下たち。その他大勢。お前には人脈があんだろ。俺と違って。
「なんで俺に頼む必要があるんだ?」
俺は、お前を大切だと思ってるが、お前はそうじゃねぇんだろ。
あいつの涙でぐしゃぐしゃになった顔、絶望に見開かれた両目がこちらに向いていようが、悪態はするりと喉を通り抜けた。
「ふざけんじゃねぇよ」
大股で歩き出し、すぐにその場を後にした。
堰を切ったように子どものように泣きじゃくる声、涙で咽せて出た渇いた咳を聞きながら、ただ静かに小屋から遠ざかった。
少し離れたところで立ち止まり、足を止めて、考えた。
自分勝手な感情に振り回されず、極めて冷静にあいつを諭してやればよかったのだろうか。
いや、変わらなかっただろう。
そうしてあいつが落ち着いたとしても、兄弟を失って自暴自棄になる気持ちは俺にはどうしてやることもできないだろうから。
諭してやれたならば、糸目を吊り上げてニヒルに笑うあいつの笑顔を見られたのだろうか。
いや、見たとしても、何にもならないだろう。
あいつに粗雑に扱われ、勝手に擦り切れちまった俺の気持ちは完全には癒えないから。
その時、人間のものとは到底思えないような不気味な泣き声が遠くから聞こえた。
思わず振り返る。
大きな小屋をいとも簡単に壊しながら。
水色の髪が生えた化け物が這い出てきた。
あんな派手な水色の髪をした奴は、あいつしか。
俺の喉が、掻き切られたみたいにひゅうと音を立てる。
生白い体が大きく捩れて、皮膚に浮き出た骨が音を立てて折れて。男にしては高めの声が、低く唸って。
俺のせいだ。
お前をこんな目に、合わせてしまった。
遅かれ早かれいつかこうなる運命だったとしても、俺は、今のお前から当たり前でいることの幸福を奪ったんだ。
その類稀なる頭脳で、何回でも俺の世界第二位の座を揺るがしてほしかった。
無理だと分かっていても、仕立てさせたばかりの軍服を押し付け、揶揄うように笑って、何回でも俺をお前の軍に引き入れようとしてほしかった。
思い立ったその日に干し肉を贈り合って、フラッシュ前の祝日の一端を擬似的に楽しんだりしていたかった。
ボロボロに荒廃したこんな世界でも、お前とはどっちかが死ぬまで馬鹿やってたかったよ。
雨なんて久しく降っていないのに、砂で埃っぽくなった頬が温く濡れた。
遠くからでも、恐怖で動けない部下たち、奴に捕えられて藻掻く部下たちの様子が見てとれる。
お前を楽にしてやるのなんて、ただ強ければ他のヤツにでもできる。
だが、俺はお前の唯一の悲願を託された。
だから今、それは紛れもなく俺にしか達成できない。
待ってろ。
俺が今から、お前を殺しに行ってやるから。