Realize
2025.04.23
手をそっと、優しく引かれるかのように。俺はあたたかいベッドの中で目を覚ました。
白く高い天井が俺を見下ろしている。こいつを以前のように延々と見続けることは、もうないだろうと思う。
あくびをしながら目を擦って、すぐに上体を起こした。垂れてくる長い水色の髪には波打つような寝癖がついている。夜中に一度も目を覚ますことなく、アホみたいに眠れていた証拠だ。
ベッドから足を下ろしてスリッパを履いて数歩歩き、躊躇うことなくシャッとカーテンを開けた。その下から漏れ出ていたものとは比べ物にならないくらい眩い朝の光が白く炸裂する。
瞼の血潮の朱色が透け、眉根に皺が寄るほどに眩しい。だが、鬱陶しいとは決して思わない。
気怠い頭の重さもない。ベッドに磔にされたような息苦しさもない。きたる新しい一日を生きなければならない理由をぐるぐると考え続けることもなければ、ここでダラダラと時間を浪費する必要性も感じない。
良い朝だ。
俺は寝室のドアを開けて廊下に出た。
……奴がこの屋敷に来てから、俺の中で確実に何かが変わったのだ。
「あっ!ご主人サマじゃん!おはよ~!」
身支度を終えてバルコニーに行くと、奴が悪魔みたいな笑顔で出迎えてくれる。
左耳の下あたりで結った黒髪と、シャツや手袋の白から覗く浅黒い肌。そして、そのありのままの色たちに調和するかのような、黒い執事服。
……黒が似合うよな、コイツ。
ていうか、この執事服は俺が採寸してオーダーメイドしたんだった。そうだ。奴に黒が似合うだろうって最初に言い出したのは俺だった。
……本当に似合う。
「おはよ」
「今朝は早起きだねェ!もしかして寝ションベンでもしたん?恥ずかしがらずに俺に言ってみ?ホラ~!」
朝っぱらからよくこんなにハリのあるデカい声が出るもんだ……。いわゆる強面の部類に余裕で分類されるであろう凶悪なツラが、鼻同士がくっつきそうなくらいの近距離で俺をジロジロ見てくる。クソっ、ムカつく。
基本的に粗野で高圧的、そして不敬。そう。コイツはいつもこんな調子だ。俺はコイツの雇い主で、コイツは俺に仕える執事、な、はずなんだが……。
「はいっ、メシお待ちィ!」
まるでラーメンが出されるかのような掛け声とともにそっとテーブルに置かれたのは、黄色のバターと琥珀色のメープルシロップが添えられた三段重ねのパンケーキだった。
「うおっ、俺これ大好きなんだよ~!ありがとう!」
いい歳して、ガキみたいな爛々とした声が出て、自分でも驚く。
「フッ……俺も大好きだぜ。これ」
できたてのあたたかいパンケーキの上に、バターをのせてメープルシロップを掛ける。青い空、はるか頭上から降り注ぐ光を返し、メープルシロップがはためいているかのような光沢を見せる。バターがゆっくりと薄く溶けていくのを見るだけで、いつの間にか過剰に分泌されていた唾をごくりと飲み込んでしまう。バターとメープルシロップを吸い込んだふかふかのパンケーキをナイフで切って、フォークで刺し、待ち侘びたかのように口いっぱいに頬張る。
「……うまい!」
一切の焼きムラがなく精巧で綺麗な見た目なうえに、この優しく素朴な味わいときた。俺はかなり舌が肥えている方だと思っていたが、この……鼻に抜けるバターの香りにそっと目を閉じてしまう感覚なんて、コイツが作ってくれる数々の料理で初めて知った。むしろ、俺がチップを渡したいくらい。普通に店を出せるレベルだ。でも、俺の元でだけ作ってほしいな。金なら出すから。
「そっかそっか~!よかった。執事冥利に尽きるわ、マジで」
いつの間にか奴は、俺と同じテーブルを挟んで向かいに腰掛け、煙草を吹かしながら笑っていた。それを眺めながらパンケーキを頬張るとうまさも倍に感じられて、白い皿はすぐにすっからかんになってしまった。今日はそんなに仕事も立て込んでいないから、もっと味わって食べようと思っていたのに。明日の朝はもっとモリモリにしてもらおう。俺は既に、明日のことを考えている。今日は、まだ始まったばかりだ。
意外なことに、コイツは屋敷の外でしか煙草を吸わない。雇い主の俺と同じように、この屋敷を大事にしてくれているのだ。
この噎せ返るような香りも、煙の揺らぎも、どこか落ち着く……。
奴がゆっくりと瞬き、煙草から唇を離した。
「ダイス。何か、気付いた?」
え。
間抜けな声が出て、静かな屋敷の庭園にまで抜けていくようだった。
「俺は、お前が、何かに気付いたんじゃないかと思う」
……いつものお前になってるから。
いつもの、俺。
「俺にはわかるよ。俺と軍に所属してたときのお前も、俺のことよく見て、誰も気に留めないようなことにも気が付いてくれてたから」
白い手袋に包まれた指が、その優しげな表情の前でそっと組まれる。
「お前を見てるとわかる。五感全てで、気付けるようになった」
……違う?
どうしよう。俺。コイツがこの屋敷に来てから……そうだ。
『幸せ』に気付けるようになったのだ。
「そっ、か……俺っ、俺、変わっちまってたんだ……。兄弟を亡くしてから、っ、何を見ても色褪せてて、何も聴きたくなかった」
両目から溢れ出した涙も、垂れ下がるように重苦しくはない。むしろ、軽やかに輝いているようにさえ感じられる。
俺が生きてきた世界は。いつも、これほどまでに美しかったのだ。
それは、他でもない。シンディが気付かせてくれた。
「それはお前がお前でいるために必要なことだったんだよ。変わっちまって苦しんだ過去のお前も、幸せに気付かされた今のお前も、全部お前なんだ」
気付けて、よかったな。
ざり、と椅子を引く音がして、涙でぼやぼやと滲んだ視界に黒が差したと思うと、肩を抱かれた。
いつもみたいに、乱雑じゃない。穏やかで優しい。あやすように肩をぽんぽんと叩かれると、もう出ないだろうと思っていた涙が次々と出てくる。
黒。その色からは、様々な色を感じ取ることができる気がする。
色を塗り重ねれば塗り重ねるほど黒に近付き濁るというが、俺はそうは思わない。
濁るどころか、どこまでも清らか。この黒色は、強く高潔な、俺の光だ。