bouquet
2025.04.23
首の後ろに嫌な汗がじわりと滲む。ここは空調が効き、だだっ広く、紛れもなく快適な書斎。それなのに、狭い箱に詰め込まれているような重苦しい気分になる。
実業家としての仕事は極めて順調。兄弟を亡くし、仕事に手が付かなかった以前とは比べものにならないほどに調子が良い。質も落ちていないし、追い詰められてしまうほど量が多すぎるわけでもない。だが最近、俺の仕事に取り組む意識が変わって、仕事について考え込むことが多くなった。
俺は、地位や金に執着していた以前とはまるで違う。裕福な暮らしの中でも胡座を掻かずに明日に向けて食いつなぐこと。それが、今の俺の大きな目標だ。
俺は大切な兄弟を亡くし、深く絶望した。金なんて持っていたって結局、たった一人の家族すらも守れないのだと。そこから自暴自棄になり、違法なドラッグ……ジョイに手を出してしまった。ジョイを入手するため、そして、優秀な実業家としての面子がこれ以上潰れないようにと、秘密裏に邪魔者を消したこともあった。
鬱、クスリ、金が渦を巻き、蹲るしかなかった俺の元に、ある一人の男が尋ねてきた。俺が作ったなけなしの執事募集の貼り紙を持って。
その男は偶然にも、以前俺が軍に所属していた頃の同僚、シンディ・ギャローズだった。
奴は軍を辞めた後、違法な闇ファイトで稼いでいた。そのため裏世界に精通していた奴に俺の悪事は簡単に見抜かれ、釘を刺された。
『俺はね、のんびり働きながら平和に暮らしたいなあと思ってここに来たんだよ!なのにさァ、雇い主のお前が裏で悪事働いてるなんてダメだよ!いつかこうやってバレて悪いことに巻き込まれるよ!平和が遠のいていく一方じゃん!ご主人サマ……せめて俺が執事の仕事に飽きるまでは、反省して大人しくしててくんないかなァ!?』
あの時のアイツのがなるような声とか、まるで昨日のことのように思い出せる。
このまま誰にも知られずに上手くやっていけるだろうと思ったのに、偶然再会した元同僚に全部バレて。しかも一番面倒くさいヤツに弱み握られちまったと思って。あの時はかなり恐怖してた。
でも、俺が奴に言われた通り、悪事を反省して大人しく過ごしていると、奴は驚くほど懇切丁寧に尽くしてくれた。まるで執事の鑑であるかのように。基本、言動や行動は粗野で高圧的で不敬ではあるが、その裏側には激励とか、思慮が見え隠れしていたり。それで発破を掛けられて、仕事を頑張れることも少なくなかった。
奴の仕事内容やその頻度はかなり気まぐれで、仕事中の菓子の喫食や喫煙はもはや日常のルーティンではある。だが、荒れ果てた屋敷が美しく甦り、かつそれがしっかりと維持されているというのは……本当に見事だとしか言いようがない。
フラッシュとかいう大災害で家族を失い、俺と共に残された兄弟さえ亡くし、天涯孤独だった俺は、奴のおかげで再び立ち上がることができた。
『俺は今まで、軍の一員として闘ったり、闇ファイトで荒稼ぎしたりしてきた。でも、俺はただ単に強いからそういうのに向いてたってだけでさ。闘うことそのものなんてさァ、全然好きじゃなかったの。だから今の暮らし、人生で一番、俺に向いてるって思う』
ご主人サマ。俺ずっと、お前に仕えていたいよ。
俺は、緑の茂る庭で水を撒きながら、そう俺に笑いかける奴の顔が今でも忘れられない。
権力とか、暴力とか。そういうものを振りかざして闘うのではなく。平穏な日々を守っていくために、闘う。平和という尊いものが、残酷に途切れてしまわないように、静かに闘う。それは、シンディが身をもって教えてくれた。
俺はアイツに導かれるようにして、こうやって善い方向に頭脳を使って、この屋敷での暮らしを守るために闘っているのだ。俺は、決して一人じゃなくなったから。
幸せなことだ。守りたいと思うものができたということは。心からそう思う。これこそが、俺の仕事に取り組む意識を変えたものだ。でも、時としてそれが重く心にのしかかってくるように思うことがある。それこそが、仕事について考え込むことが多くなった理由だ。
俺が路頭に迷ったって別に構わないが、俺の傍に居場所を見つけて、ここにいると言ってくれるアイツを路頭に迷わせるなんてことがあったら。俺は、本当に……今度こそ本当の意味で自分を見失ってしまいそうだと思う。
アイツはついさっき、どこに行くと言って書斎を出ていったんだっけ。仕事のことばかり考えていて、不覚にも何も覚えていない。屋敷の中にいるのか、街に出たのか……。
長い髪がうざったくて、頭が重く感じる。肩まで凝ってくるようだ。
……アイツみたいに、左耳の下寄りに、髪を結んでみようか。アイツが、側にいてくれる気がするから。
奴とたった少しの間離れているだけだというのに、まるで一人で物事に立ち向かうような心寂しさを感じているなんて情けない。きっと、ガキのようだと笑われるだろう。
ヘアゴムを手首に通し、櫛を手に取る。髪を梳かし、掻き集めていくが、どうやっても解れてしまう。上手く結べない。焦れる。俺はいつもこうだ。家事だけではなくこういうことに対しても不器用さを発揮する自分が嫌になる。
俺、独りになったら、生きていけるのかな。
シンディと再会する前。色が消えたような日々をどうやってやり過ごしていたのか、もはや覚えていない。思い出すのも怖い。朧げに残っているのは、辛く苦しかった感情の輪郭だけだ。
シンディがいなくなったら、俺、一体どうなるんだろう……。
「ご主人様」
耳元で聴き慣れた低い声がした。驚いてわっと叫んで、漫画みたいにキレイに椅子から転げ落ちた。
「いってぇ~……」
尻をさすりながら声のした方を見上げると、当たり前に、奴がいた。
「おう、ただいま。買い出し行ってた」
いや、当たり前だって言うのは、驕りだよな。
黒い執事服が似合うその立ち姿を見るだけで、鼻の奥がツンとしてくる。
「おや……?そんなにお歳を召していらっしゃるのに、髪さえ満足に結うことができないのですか……?フフッ!いえ失礼。どうぞ、続けてください?」
奴は近くにあった書斎の椅子を雑に引き寄せ、背もたれを前にして座った。背もたれに割れた顎を置いて、子供みたいに両腕をぶらぶら投げ出して遊んでいる。
失礼を通り越して不敬だろ!こんなやつに負けたくない……!
床に落ちてしまった櫛を拾い上げ、椅子に座り直して、再び髪に櫛を通す。
凄くじっと見られてる。わざわざ奴を見なくても分かる。そんなに俺を見てくれるな。
後れ毛が細く垂れて、絡まって。指が無様にもたついてるのなんて、情けなくて見られたくないのに……。
「……花束作ってるみたい」
花束。
急に厳つい顔に似合わないこと言うから、俺は固まってしまった。
「馬鹿にしてるって思った?それとも、冗談だと思った?馬鹿になんてしてないし、本当に心からそう思ったんだよ」
奴の方を見る。背もたれに腕を置いたまま、白い手袋に包まれた指を繊細に動かし、それとは対照的な雄々しい目付きで俺を見ていた。
「細い花の茎を、指できゅって集めるみたいにして。自分で頑張ってやろうとしてるの……ちゃんと分かるよ。俺は」
俺はそれに見惚れて、何も言葉が出なかった。
「櫛とヘアゴム貸~してッ!」
「あっ」
いとも簡単に櫛とヘアゴムを奪われ、その弾みで毛束をぱらりと離してしまった。
「楽しそうだから俺にやらして!一応聞いとくけど、左耳に寄せて結ぼうとしてたのはわざと?それともブキッチョだから?」
「わ、わざと、だけど……」
「俺とお揃いにしたかったんだァ〜!へェ~!」
なんでバレてんだ……?恥ずかしくてただ顔が熱い。
「あいにく俺も色気のねェ黒いヘアゴムしかないんだ、悪いな。ホントは細めのリボンとかが、花束っぽくなっていいんだろうけど」
今一度、椅子にしっかりと座り直す。一拍置いて髪に櫛が通され、ゆっくりと梳かれていく。
「花束だなんて洒落た例え、どこで覚えた?」
お前に髪を触られるのが心地良い、なんて言ったら気色悪いかな。でも、本当にそう思う。
「別に。さっき買い出し行った帰り、花屋の前を通ったなって思い出しただけ。何か買っていこうかなって思ったけど、俺かなり気まぐれだし……世話すら気まぐれにされたら花だってたまったもんじゃないだろ」
「俺、やるよ。こう見えてサボテンの世話だけは毎日続けられてるんだぜ。任せろ」
「ほんと〜!?んじゃあ、買ってきてやるよ!」
「……俺に!?」
「うん」
「あ、ありがとう」
「ブルー……うーん、ブルー、なんちゃらって花。お前の髪みたいな色の」
俺も花には詳しくないからな……。なんだろう。そんなストレートな名前の青い花なんて、あるんだろうか。
「髪といえば。お前ってもっと歳取っても髪この色に染めるの?」
「特に考えてなかった。お前もこの色が好きってんなら、そうしようかな」
「好き……いやこの色っていうか、お前が好きなものに同じように惹かれちまってるだけだよ、俺は?」
「う」
なんか、胸がどきっとして切なくなった。勢いで情けない声まで出た。
「でも、俺もこの色好きだから、って理由だけで染め続けなくてもいいと思う。俺は嬉しいけどね。お前がしたいようにするのが一番いいさ」
「ん、んじゃあ、歳取ったら染めるのやめて、ナイスシルバーになろうかな」
「おお、確かにお前似合いそうだよな。そしたら白い花でも贈るよ。もしこれから会社立ち上げてオフィス構えるとかなったら胡蝶蘭とかでもいいかも。設立おめでとう、って」
ホントによぉ、一丁前に洒落やがって……。どぎまぎして仕方ない。
「……急に、俺の自分勝手な話、していい?」
俺はもちろん、うん、と小さく言う。
「昨日の夜さ。お前が、デカい化け物になる夢を見た」
櫛の動きが急にぎこちなくなって、震えて、櫛の歯が頭皮をくすぐった。
「口元の黒子が伸びた皮膚に引っ張られて薄くなってたり、動物みたいな低い声で叫んでボロボロ涙をこぼして泣いてたりっ……してたの、ずっと頭から離れなくて。も、俺……眠れなくて」
俺の髪の束をそっと掴んでいた奴の両手の片方が、そこから一瞬離れ、少ししてまた戻ってきて、再び髪の束を握る。それが二、三回繰り返された。
「……だから、なんかお前が心配で仕方なくて、今。書斎に顔を出してみたってわけさ」
でも、奴は決して後れ毛を取りこぼすことなく、しっかりとまとめた髪の束を掴んでいてくれる。
コイツが俺なんかのことを考えて泣いてくれるのなんて、初めてだ。
「お前はさ、肩肘張って頑張って稼ごうとしなくていいんだよ」
雇い主に対して怯むことなく意見してくれる執事って、凄いな。いや、馬鹿にしてるわけじゃない。実際、凄いなって圧倒されるくらいの力を、コイツからもらってるのは確かだ。
「俺の帰る場所にお前がいてくれたら、それが俺の最上の幸せだから。万が一、この屋敷売っ払うことになってもさ。お前は雇い主から世帯主にジョブチェンジしてさ。毎日一緒に狭い風呂入って同じ布団で寝ようよ」
平穏な暮らしを続けていくのが一番大切。望んだ人生を生きることが一番の幸せだよ、ダイス。
どうしよう……。何か、滅茶苦茶喜ばしいことを言われている気がする。心が震えてしょうがない。
今ハッとした。
俺も、お前と同じだ。
お前の傍に、俺の居場所がある。
「はいできたッ!……エーッ!?メッチャ似合う!お前ってマジの花束じゃん!?」
気付いたら滅茶苦茶キレイに髪を結んでもらってて、まるで畑からスポッと引っこ抜かれる野菜のように椅子から立たされて、凄くアツいハグをされている。痛い。全身の骨が折れそう。
これに、愛を込めて……と。
額に掛かった髪を掻き分けられて、そこにキスをされた。
「これで、完成」
理解が追いつかない。
「この花束さあ。俺が作ったから、俺が貰っていい?」
「……おう、貰ってよ」
腰に回された手に手のひらを重ねてその目をじっと見つめ返す。
愛おしい人のためならば、理解が追いつくよりも早く、体は動く。きっとそれは、コイツもそう。
「やった〜!」
嬉しそうな顔が子供みたいで可愛いな、なんて思っていたら、軽々とお姫様抱っこされ、わけも分からぬまま俺の寝室まで連行される。
ドスッ。
柔らかいベッドじゃなくて、バカ執事の硬くて逞しい体の上に着地した。せっかくキレイに結んだ俺の髪を乱さないように、気を遣ってくれているらしい。
レースのカーテンが窓から吹き込む風で揺れている。無数の細かい穴が空いた影が優美に動き、俺たちを一緒くたに纏めるように、色味の違う髪や肌を彩る。
本当に花束そのものになった気分だ。花のような、人生。
俺なんかが、こんなにも愛でられてもいいものだろうか……。
「ダイス。このまま一緒に寝ちゃおっか」
背中に手を回されて抱き締められる。
白いベッドの上はあたたかくて、日の光が当たってあたたまった黒い執事服はもっとあたたかくて、泣きそうになる。
「……ごめんな。俺、お前のおかげで仕事のやる気出てきたから、仕事に戻るよ。お前、昨日ろくに眠れなかったから眠いだろ。少し休めよ」
「うん、ありがと……」
涙が零れそうになっているのを見せたくなくて、足早に去ろうとしてしまう。
「おやすみ」
ドアをくぐって扉を閉めようとする俺を、シンディは広い肩越しに、優しい眼差しで見送ってくれた。
「ダイス、愛してるよ」
「俺も、愛してる。シンディ」
ドアをそっと閉めた瞬間、下を向いたら涙が一筋流れた。
なんて、愛おしいんだ。アイツは。
仕事を満足に終わらせたあとで、今度は俺が、腕を大きく広げて胸いっぱいに抱き締めてやるんだ。
強く、黒く、高潔に咲き誇る花束を。