Relaxing Time
2022.09.20 2022.11.27
「……ぴえん」
狭いバスタブを満たす不透明なピンクのお湯を両手ですくい、じっと見つめてから、わたしはぽつりとつぶやいた。
「どしたん?話きこうか?」
すぐにわたしの後ろから、愛おしいひとの声が返ってくる。思わずくすりと笑ってしまい、あっという間に両手の隙間からさらさらとお湯がこぼれ落ちた。
「オタクに媚びるの、ストレス溜まりマクリマクリスティーなんだわ」
本当は生きているだけでストレスが溜まるけど、そんなこと言ったらピが悲しむかと思って、少し考えてオタクたちのせいにした。
わたしって、最高の女すぎる。
バスタブの縁に掛けられたピの手が一瞬わたしの視界から消えたと思うと、黄色いアヒルのおもちゃを握り締めて戻ってきた。
ぐに。
アヒルのおもちゃのくちばしが、わたしの口角に軽く押し当てられる。
「乙」
ピがアヒルのおもちゃをわたしの顔から離すと、ふりふりとやんちゃに動かす。
「……ふふっ。ちょっと、ピ」
わたしは自分の体を取り囲むピの脚につかまりながら、体を反転させる。
そこには、アヒルのおもちゃを水面に浮かべて子どもみたいに遊ぶピがいた。――わたしにはもったいないような、すてきなひとだ。
「どうしたの?」
ピはアヒルのおもちゃに夢中になっていたけど、すぐにわたしに気がついてこっちを見てくれた。
「ちゃんとキスになってなかったよ」
「えっ」
わたしが自分の口角を指し示すと、ピはいつもはクールな顔の表情を崩して、驚きをあらわにしていた。
「ピって普段はしっかりしてるのに、変なとこ抜けてるよね」
「は、恥ずかしい……」
アヒルのおもちゃの影に隠れたピの顔が赤いのは、のぼせたからじゃないみたい。
わたしはたまらなくなって、ピの手首を掴んでアヒルのおもちゃを退けさせると、その柔らかな唇に小さくキスをした。
「はい、これでチャラ」
ピにほほえみかけると、固まっていたピが満面の笑みを浮かべながら両腕を伸ばしてきた。お湯がばしゃ、と音を立てる。
「あめちゃん!」
わたしは一目散にその胸の中に飛び込んだ。
ひた。
お互いの体がぴったりとくっつく。湿度の高い感覚。吸いつくと表現した方が正しいのかもしれない。
「よしよし」
アヒルのおもちゃを手放して、ピはわたしの背中を撫でてくれる。わたしも、ピの体を自分の体に強く押し当てるように両手に力を込める。
「ピ。だいすき」
「あめちゃん。だいすきだよ」
ピとわたしの心臓の音が重なる。
このまま、時間が止まればいいのにな。
このひとが、この時間が、あまりにも愛おしすぎて、涙があふれてくる。すん、と音を立てて鼻をすすると、ピがそっと頭を撫でてくれる。
「どうしたの」
「ピ……」
今を逃したら、ずっと言えないまま。そんな気がする。
わたしは体を離し、愛おしいひとの目を見て言った。
「ピって、全然自分のこと話してくれないよね」
ピはまた、驚いたような顔をしていた。でも、ちゃんとキスになっていなかったなんて言ったさっきよりずっと、ピの心の奥に踏み込んだような気がした。
「それは……話す必要なんてないと思ってるから」
「それじゃだめなの!」
目の縁から涙が零れて頬を伝い、ぽたりとピンク色のお湯に溶け込む。
「ピがわたしの力になってくれてるように、わたしも、ほんの少しだけでもいい……ピの力になりたい」
わたしはピに涙声で訴えた。
「地球の裏側にいる数え切れないほどのオタクたちを救えたとしても、一番近くにいる大事なひとを救えないなんて、嫌だから」
ピの肩に手を置いて、そっと頭を寄せて言った。
すると、黙り込んでいたピが口を開いた。
「ありがとう、あめちゃん。あめちゃんも大変なのに、そこまで考えてくれてたんだね」
顔を上げると、そこには泣きそうに顔をくしゃりと歪めているピがいた。
初めて見る顔だった。
「自分のこと話すの、すごく苦手なんだ。ゆっくり……でも、いいかな」
「うん……!」
わたしは胸が熱くなるほど嬉しくなって、ピに強く抱きついた。水面が大きく波打つ。
わたしの肩口に顔を埋めたピは、声を漏らしながら鼻をすすっていた。
大丈夫。明日から、ゆっくり始めよう。
あなただけの天使が、いつもそばにいるから。