洗われるこころ

2022.11.11



キッチンにひっそりと立つ、俺の愛おしい恋人。花の模様があしらわれた淡いピンク色のエプロンが、彼女のその華奢で小さな体を包み込んでいた。
確かにれいんはどんな花よりも可憐だけど、正直言って彼女は花なんて柄じゃない。おとなしめに見えて、すぐ調子に乗るし、ワガママで承認欲求が強い。性格が悪い。花というより、いがぐりみたいだ。いがぐり柄のエプロン、どこかに売ってないかな。原宿あたりで探してみようか。
……なんて。俺は雨の全部が大好きだから、何かあってもすぐ許しちゃうけど。

空っぽの腹が、ぐう、と鳴る。俺はうずうずした気持ちを抑えきれずに、椅子を引いてテーブルから立ち上がった。
雨の背後に歩み寄ると、その細い両肩に手を置いて彼女の手元を覗き込む。
「マダー?」
「あら、ピ。おなか空いちゃったの?ピのおなかの音、ここまで聞こえてきたよ」
雨は白い手でピーラーを握り、しゃっ、しゃっと音を立てて野菜の皮を剥いていた。三角コーナーやシンクの中には、オレンジ色や黄金色の皮が落ち葉のように散らばっている。
『今晩はカレーよ 明日もカレーよ 明後日もカレーよ』
先程雨から送られてきたJINEの通り、今晩はカレーらしい。おそらく、明日も、明後日も。
同棲しているのになぜJINEで会話しているのか。そこらへんはスルーで。
俺たちには、俺たちなりのルールがあるのだ。
「三角コーナー洗った?」
「夕方の我が家に洗った厨が登場……」
「シンク洗った?」
「皮が散らばっててきたないって言いたいんでしょ。あとでちゃんと片付けるから」
「肉洗った?」
「お肉?洗う必要ないし、洗ったら繊維切ってヨーグルトに漬けたの台無しになっちゃうよ」
「マジレス乙。IHクッキングヒーター洗った?換気扇洗った?野菜洗った?手洗った?」
「洗った厨uzeeeeeeeeeeee!!」
雨は怒ったような声色で言いながらも、おとなしく丸裸になった野菜と手をジャバジャバと洗ってみせた。これは意外だ。
「俺が勝手に洗った厨してるだけなんだから、ホントに洗わなくてもいいのに」
「わたしはべつにいいけど、ピがおなか痛くしちゃったらって心配になっちゃったから……」
……胸が空くような気持ちになった。
彼女が、俺のことを考えてくれている。想ってくれている。それが、ただただ嬉しい。
「ははっ。……ありがと」
俺ももっと、雨みたいに、自分の内面をさらけ出せるようになりたいな。雨が俺に、俺が雨になっていって、まるで境界が曖昧になるように、全て解り合っていたいと思う。
「ていうか、ピも手伝ってよ!」
「ROM専」
「もういい!半年ROMってろ!」
俺は、こんなひとに出会えたのは初めてだった。
どこで、何をしていて雨と出会ったのかは思い出せないが、これだけははっきり言える。雨との出会いはかけがえのないものだということだ。
「雨」
「ん?」
とん、とんと野菜を切る音を奏でる両腕を制するように、雨を抱き締める。
「俺、こうやってさ、毎日……」
雨がふふ、と笑う声がする。

「雨が死ぬまで……ROMってていいかな」

「いいよ」
「えっ」
俺はついつい、『ポイントカードはお餅ですか』のコピペみたいな、素っ頓狂な声を上げてしまった。
おかしいな、上手く伝わらなかったかな。プロポーズ……とか、そういうつもりだったんだけど。はい、今日のパチンコ代♪みたいなノリで返されてしまった。
「ちょ、ちょっと待って」
野菜を全て切り終えたあめちゃんの肩をぐい、と掴み、体をこちらに向けさせる。黒々とした右目が、不思議そうに俺を映す。あっ、かわいい……じゃなくて。
「なに?」
「あの……いいの?そんな簡単にOKして。俺はもう雨と一生一緒にいても構わない、っていうか、一緒にいないと駄目なんだけど、雨はそうでもないかもしれないでしょ。俺と一緒じゃなくても、雨は問題なく生きていけるかもしれない。あれ、何言ってんだろ俺……」
面倒くさいことをつらつらと述べていると、雨が俺の背中に手を回し、ぎゅっと抱き締めてきた。あまりにも愛おしくて、喉奥からぐ、ともご、ともつかない呻き声を絞り出しながら、俺の胸に埋まった頭を撫でることしかできなかった。
雨が、俺の服を両手で掴みながら俺を見上げてくる。
「返事したでしょ。いいよ、って。すきすきだいすきなピには、特等席……わたしの隣でわたしを見る権利をあげる」

「わたしだけ見ててね」
彼女は、まるで天使のように微笑んでいた。

「ピ、なんか目とほっぺた濡れてるけど、顔洗った?」
「……も~~~」

俺の、俺だけの天使。
彼女が天に還るときまで、俺は彼女の傍にいる。そう、必ず。



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