地球にいないふたり
2022.12.31
大みそかの夜。ピと2人、小さなこたつを挟んで年越しそばをすする。
今年の年越し配信はやらないことにした。今のわたしは、超てんちゃんとして星の数ほどうじゃうじゃいるオタクたちに媚びて承認欲求を満たすより、世界にたった一人の恋人とかけがえのない時間を過ごしたい気分なのだ。
こまめに更新される超てんちゃんのぽけったーが、今日に限ってだんまり。この混沌とした令和のインターネット上にオタクたちの様々な憶測があれやこれや飛び交っているのは、わざわざスマホを開かなくてもわかる。ついこの間……クリスマスのときもそうだった。まったく、オタクってめんどくさ。
「雨、年越しの瞬間どうする?俺、子どもの頃はやんちゃで、毎年年越しの瞬間は地球にいないようなやつだったんだけど……ははっ」
驚いた。わたしもそんな話をしようと思っていたところだったからだ。
「……へぇ。いいね。地球にいない。夢があるね」
……でも、これからしようと思っている話は、ピにはかなり酷だと思う。でも、わたしはそっと口を開いた。
「じゃあ、どうしようね」
「どうしようって、何を?2人でジャンプするだけじゃん」
「……どこからジャンプする?」
「え」
お酒も入っていないのにご機嫌だったピの顔から、潮が引くようにサッと笑顔が消えた。力が抜けたピの指から、箸が弧を描いて落ちる。
「雨」
言葉を発さない間にも、ピの唇は喘ぐように動く。
「俺」
喉を圧迫されているかのような苦しげな声だった。
「俺嫌だよ」
わたしは知っている。ピが嫌なのはわたしと一緒に死ぬことじゃなくて、わたしと一緒に生きられなくなることだということを。
「俺も人並みに、生きるのつらいなって思うことあるよ。死んだら何もしなくていいんだよなって思うことあるよ。でも、俺……雨のお陰で、つらいことの方が多くても、小さな幸せのためになら生きててもいいかなって思えてるんだよ」
ピの両目がみるみるうちに赤く充血して、薄く涙の膜が張る。
「雨はどうしようもなく死にたいのかもしれない。でも俺は……自分勝手だけど、雨には生きててほしい。雨と生きたい。雨とじゃないと駄目なんだよ。人生ってつれぇなって笑い飛ばしながら、歳を重ねて、最期、雨を一人置いていかないようにして人生を終えたい。そう思ってたのに……こんなことってあるのかよ……」
ピはうろたえていた。わたしが、思い残したことが何もないような晴れやかな顔をしているから、というのもあるんだろうけど。
「雨。考え直してくれよ。死にたい人間に生きろと言うのは、生きたい人間に死ねと言うのと同じことだって分かってる。でも……生きようよ、俺と。なあ、雨……」
ピの両目にぬめった光が渦巻いたと思うと、ついに涙の粒が零れ、頬を伝った。
普段口数が少なくそれほど主張も強くはないピが、私のために思いを口にしてくれている。胸が痛むけど、わたしはそれが嬉しかった。
「大丈夫。前向きな理由だから」
わたしは、髪を揺らしてピに笑顔を見せた。心からの笑顔だった。
「今最大級に幸せだからこそ、幸せなままで終わりたいの。大好きなピと一緒に」
「……そうだったのか。雨が、幸せだって思えるようになってくれて嬉しいよ」
わたしは小さく頷いた。わたしはもう考えを曲げることはしないし、ピもそれを認めてくれている。余計な言葉はいらなかった。
じゃあ、と呟いたあと、ピは涙を拭ってあたたかい笑顔を見せた。
「……一緒に死のう」
「雨。来世って信じるか?」
「人間は死んだら無だよ。死後の世界も、来世なんてものも存在しないと思うよ」
ビルの屋上。ピと2人、手をつないで冷たい地上を見下ろす。
「俺は、信じるよ」
ピの大きな手に力がこもる。
「来世、同じ男と女でも、性別が逆でも、同性同士でも、歳が離れてても、国籍が違ってても、はたまた人間以外に生まれても」
思わず顔を上げる。いつも見ている顔が、夜景に照らされていた。
「雨を見つけてまた一緒になりたい、いや、絶対なるから」
わたしは気付いたら顔を歪めて情けなく泣いていた。
「それまで他のやつに目移りしたら怒るからな。大人しく待ってろよ」
ピは笑いながらもう片方の手で涙を拭ってくれた。
「あ~……」
ピはポリポリと頬を掻きながら、何かやらかしたような声を上げる。
「どうしたの」
「ヤバい、結婚したくなってきた」
「えー!まあ、わたしもだけど」
「だよなあ。理解人」
「でも、トイレ行きたくなってきたみたいなノリで言うのはやめて」
「う……ごめん」
ピはしばらく何か考えるような素振りを見せたあと、つないだ手を離し、わたしの2つに結んだ髪をそれぞれ解く。長い髪が腕や首をくすぐるのを感じた。
「ピ?」
ピは両手でわたしの左手を取り、迷わずわたしの細い薬指に髪留めを巻き付けた。ピも、自分の骨張った薬指に同じようにもう一つのそれを巻き付ける。
ピに赤色が似合うと言われてからずっと愛用している髪留め。少し色褪せていたけど、お互いにとって最高の贈り物になってくれたと思った。
わたしは嬉しくてしばらく左手を握ったり開いたりしていたけど、ピが急にわたしの手を取った。目の前には、頬の緩んだ見慣れた顔。
「新婦雨、あなたはピを夫とし、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、夫を愛し、敬い、慰め合い、共に助け合い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」
「……あれ?誓いの言葉のあとに指輪交換じゃなかったっけ?違う?」
「おい!雰囲気が台無し!最初に誓いの言葉言ったらおちょくられると思ったからこうしたんだよ!」
「ふふふ、いいよ。……誓います」
「ありがとう……じゃあ俺が言う通りに言って。新郎ピ、あなたは……」
「新郎ピ、あなたは雨を妻とし、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、妻を愛し、敬い、慰め合い、共に助け合い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」
「えっなんでスラスラ言えるの」
「いや……実は、結婚したときに備えて覚えといた」
「雨~!くぅ~!誓う誓う!誓います!」
子どもみたいな笑顔。……これを見られるのは、今日で最期か。
「雨。今までありがとうな」
ピの顔がぐっと近付いてくる。
「また来世」
柔らかな唇が重なる。
誓いのキス。
ピの言う通り、来世はあって、死んで生まれ変わってはじめて、そこから始まるの。
これは終わりじゃない。悲劇じゃない。始まりであり、喜劇なんだ。
大きな手がわたしの肩を軽く押す。体全体に何も支えがない感覚や耳元を吹き抜ける激しい風を感じながら、わたしは意識を手放した。