blanket

2025.03.12



あたたかいスープを注いだマグカップをふたつ持って部屋に戻ると、彼は大きな体を丸めて僕の机に突っ伏していた。彼の名前を呼びそうになった唇を柔く噤んで、静かに後ろ手でドアを閉める。足音を立てないようにそっと彼に近付き、机の上にマグカップを置こうとすると、あることに気付いた。

彼との地動説の話に花を咲かせながら机の上いっぱいに広げていた、僕の観測記録の数々。彼はそれを腕の下敷きになってしまわないよう大きな体を無理に捻って、残された僅かなスペースにそっと体重を預けていた。小さくゆっくりと上下する背中を見つめながら、湯気をくゆらせるマグカップを置く。彼の厚意に感謝しながら僕も、彼から少し離れた、僅かなスペースに。

……なんて、優しい人なんだろう。彼の篤い情は老星アンタレスの赤い光のように、真っ直ぐに心に射し込んでくる。邪念を払うような高潔な光だ。
彼とは本当に、地動説の話しかしていない。お互いの身の上話なんて一切しない。でも、彼が僕と同じ宇宙を信じていて、それを心から愛している……それがひしひしと分かるだけで、僕も仮面を取り払ったかのように旺盛な好奇心をさらけ出せる。宇宙に境界なんてないんだ。

でも少し。少しだけ、彼のことで気になることもある。
ポトツキさんから貸された別宅って、暗くはないだろうか。寒くはないだろうか。これは僕の勝手な考えだけど、別宅が暗くて寒くてよく眠れていないから、僕が席を外した短時間でこんなにも深く眠り込んでしまったのではないだろうか。寂しくは、ないだろうか。もしよかったら、遊びに行きたい。……ああ。少しだけじゃ、ないな。
気になるだけに留まらない、自分勝手な欲。全くもって合理的じゃない。
夜が来て、星がちらちらと空に増えていくように、光の当たらない場所にひっそりと佇む貴方のことがもっと知りたくなって。僕は、もうどうしようもない。

僕の椅子に座る彼の長い両脚は、窮屈そうに曲げられている。脚が悪いのに、子供が使う椅子を使わせてしまって申し訳ないと思う。そして、そこからふと視線を移していくと、丈の長いローブから覗くサンダルを履いた裸の足が目に入って、それがなんだか酷く寒そうだと思った。
ブランケットを持ってきて広げ、そっと彼の膝に掛けてみると、これも子供用だったようで、ブランケットの端が彼の爪先にさえ届かない。それに、重さで今にもずり落ちそうになって見るに堪えない。これだから子供ってのは不便だ。やりたいことがあっても、充分に出来ない。

そう。変にマセたことも、今じゃなきゃ充分に出来ない。

オレンジ色の蝋燭の光に照らされた彼の顔。指先を伸ばし、引き攣れた頬に触れる。硬い。手のひらをこめかみにそっと滑らせて、毛先に黒を残した白い髪に触れる。細くて柔い。
その睫毛の輪郭が曖昧になるほど顔を近付けて、小さな頭蓋同士をこつりとくっつける。
ああ。ずっとこうしたかった。こうすれば、完成した貴方だけの宇宙が見られるかもしれない、なんて思ったから。
卑怯な子供でごめんなさい。フベルトさん。

「……ラファウ」
彼がなんの予兆もなく瞼を上げて、その新月のような黒い目が僕を捉えた。
「うわっ!フベルトさ、ごめんなさいっ……!」
急なことでどくどくと鳴る心臓の裏側、僕の背中を、いつの間にか彼の手が優しく制していた。
「あっ……」
彼がゆっくりと上体を起こすと、それだけで僕の部屋の壁に獣のような巨大な影ができた。
「このブランケットは、君が掛けてくれたのか」
「は、はい。でも子供用なのを忘れていて、長さが足りなくて……申し訳ないです」
「私は君のその気遣いが充分に嬉しい。ありがとう」
「い、いえいえ」

それで、続きは?

「えっ」
息が多く混じったその声でぎゅっと胸が苦しくなった。彼が僕の手を取って無骨な手で包み、頬、こめかみ、髪、そして額を、順番に迷うことなく触らせた。あ、クソッ、バレてる……!彼にしっかりと触れられるのが嬉しい。でも内心死ぬほど恥ずかしい。顔が熱くて火達磨になりそう。
「続きは?考えていなかったのか?」
「いっ、いやあの、考えてましたよ……?ぎゅ、ぎゅっ、ハグとか……ちょっと、何を言わせてるんですか!?」
「そうか。不純だな」
恥ずかしさと怒りで彼の首元のフードをガシッと掴みそうになるのを必死で抑えた。もうやだ……。こんなにも心を乱されるなんて。彼が地動説の話をしてくれたあの夜がまた巡ってきたみたいだ。

「……首元と肩が冷える。申し訳ないが、ブランケットか何かを掛けてはもらえないだろうか」
僕は、その少年のような遊び心が感じられるような視線を、すぐに彼なりの合図だと気付いた。

その体に両腕を回し、彼の肩口に顔を埋めて抱きついた。大樹の幹みたいに分厚い。僕の貧相な腕はその起伏に沿わせるようにするのが精一杯だ。でも、凄くあったかい。僕の体は彼の長い腕の中にすっぽりと収まっている。肌の香り、それに、穏やかな脈を感じる。時折頭をポンポンと撫でてもらえるのが嬉しい。ずっとしたかったことができて、幸せだ。

「君に触れられて目覚める前、私は地球が動く夢を見たんだ」
彼の心地良い低音が、僕の宇宙の彼方まで響く。
「完成した私だけの美しい宇宙を、君に見せたいと、強く思う」
その言葉に応えるように、僕は腕の力を強め、頬を擦り寄せる。

広大であたたかな宇宙に抱き締められているみたいだ。
この時がずっと、無限に続いていけばいいのにな。



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