外の世界

2023.04.14



「アビス!」
明るくしっかりと芯の通った声が、培養槽を満たす液体を震わせ、俺を目覚めさせる。胎児のように膝を抱えている俺の指が、ひくり、と動き、薄い瞼が、弧を描く上睫毛を吊り上げる。ぼやけていた全ての輪郭がくっきりと鮮明に形作られる。
培養液の黄緑色に染まった、見飽きた研究所の景色。そこに物怖じもせずに真っ直ぐに立ち、こちらに駆けてくる少女。
彼女は小脇にスケッチブックと色鉛筆の缶を抱え、もう片方の手をひらひらと顔の横で振って見せた。
「今日も来たよ」
その活発な笑顔は、ごく自然に、俺の目を細めさせ、口元を緩ませる。まるで、魔法みたいだ。どんなに文明が発展し、夢のような技術が世の中に溢れようが、唯一彼女にしか使えない、そんな素晴らしい魔法。
「よお、ルピッド」
声を発するのが嫌だった。彼女が来てくれたことで美しく再構築された世界が、俺の目の前で無惨に壊されるような気がして。

彼女は俺の傍に来て、培養槽に背中を預けて座った。そして、スケッチブックを捲ると、色鉛筆の缶を開け、絵を描きながら語り出す。
「今日はね、学校でね……」
彼女の声を聴いて。芯と画用紙が擦れる音を聴いて。深く、心が震えて。
俺は、こんなに幸福で、いいのだろうか。
「その子の言い訳、面白いったらなくて!僕、お腹抱えて笑っちゃったよ」
「そうだったのか。それは面白いな。その子はいつもそんな調子なのか?」
「うん!普段からちょっと抜けてるとこがあって、そこが女の子に人気なんだよねぇ」

「男か?」

「えっ」
「あ……」
彼女が目を円くして俺の方を振り返ってきて、気付いた。俺の右目がそうであるように、何か、黒く分厚いもので脳を縛り付けられている感覚に囚われて、それで……。
「すまん、その……」
「いいんだよ」
彼女は微笑み、また、スケッチブックに向き直った。
「友達が異性の話してきたら、なんだか嫉妬しちゃうもんね」
友達。
嬉しい。でも、なぜだか胸の奥がチクチクと痛む。培養槽のガラスを力任せに拳で叩きたくなる。
眉を下げ、困ったような笑顔を浮かべ、口を開きかけ、目を伏せて唇を噛んだ。
いい言葉が見つからなかった。
「ふふふ、アビス、クラゲみたい」
揺らいだ気分を一旦落ち着かせたくて、培養槽の中で上下逆さまになって目を閉じていると、彼女が俺を見てくすくすと笑った。
「逆さに泳ぐクラゲっているんだよ。その名の通り、サカサクラゲっていうんだけど」
目を開けると、彼女は自信ありげにこちらにスケッチブックを見せてきていた。
平たい頭が下、複雑な形の触手は上。彼女の言葉通り、本当に上下逆さまだった。色鉛筆の掠れた味のある質感で、クラゲのつるりとしたゼラチン質の体が見事に表現されていた。驚きのあまり、体をぐるりと回転させると、彼女は俺が見やすいようにスケッチブックもぐるりと回転させてくれた。
「びっくりした……絵が上手いな、お前」
「ありがとう!」
彼女が培養槽に手をついて溜め息を吐く。
「見てみたいなぁ……」
「ん?写真や映像、文献はたくさん残ってるだろ」
「この目で見てみたいんだ」
「クラゲはとっくに絶滅してるんじゃないか?お前の父さんもそう言ってたよ」
「でも、実際は分からないじゃん」
彼女の目が、爛々と光った。その瞳がたたえる光は、培養槽に反射するそれよりも、ずっと明るかった。
「アビス。君って、外の世界を見たことはある?」
「あるさ。培養槽の中でパネルを操作すれば、どんな場所でも……」
「その目で」
「……ない。外の世界どころか、この培養槽から出たことすらないよ」
「一緒に行こう」 
彼女の顔が眼前に迫る。胸の奥が、ずくん、と苦しくなった。
「僕と一緒に、色んなところに行こう。人間たちが作ったものも、そうじゃないものも、全てを愛でよう。行きたいって思った場所に実際に行って、そこに身を置いてみると、本当に感動するよ。戦争で荒廃した世界だからこそ、生きて、見て、聴いて、感じることが幸せだって思えるんだ。君も、そう感じてほしい」 ゆっくりと、彼女の手に、俺の手を重ねる。ガラス越しなのに、あたたかい体温を感じる気がした。
「……行きたい」
外の世界に。
その言葉はほぼ息で構成された囁きだったけど、彼女はそれをしっかりと拾い上げてくれたようで、嬉しそうに笑った。
「約束ね!」
「……おう。約束」

「じゃあ、そろそろ行くね」
色鉛筆を全て缶の中にしまい終えた彼女が、ひらひらと手を振る。
「おう。また明日」
ずっとここにいてほしい。
「今日はね、ケフラさんたちのおうちに泊まりに行くんだ」
そうだろうと思って、触れなかったのに。
「君と話すことが大きな心の支えになってるけど、それでも、父さんがいないと……少し寂しくて」
俺では、その寂しさを埋められない?
「明日までに行きたいところ調べて、目星つけておいてね。ちょっと遠くても大丈夫だから、遠慮なく教えてよ」
お前がいない夜を越えられる自信がない。
「また明日」
彼女が踵を返して研究所の出口に向かう。

ああ。
行くな。
一人にしないでくれ。
寂しい。内側から壊されてしまいそうだ。

脳内が、嵐が吹き荒れているかのように混迷を極める。感情が膨れ上がって、収拾がつかない。
でも、負の感情ばかりではない。

ああ。
一緒に行こう。
二人でいよう。
待ちきれない。外側に溢れてしまいそうだ。

心の奥底には、いつも彼女への深い愛があった。

少し、怖い。クローンとして生を受けた頃から、俺はこの培養槽の中で生きてきた。この中でしか生きられないかもしれないし、ここから出たら死ぬ可能性だってある。
でも、俺は、彼女の隣にいたい。こんな殺風景な研究所から出て、彼女と同じものを感じながら、生きたい。

指を動かし、パネルを表示させる。
俺の答えは一つだった。

「……!……!」
籠もったような音が聞こえる。誰かの声、だろうか。
俺は、死んだのだろうか。
「アビス!アビス!」
……彼女の声だ。
何かの手違いで、彼女もあの世に来ている、なんてことだったら神を恨む。
体の感覚が少しずつ戻ってくる。小さな手が、肩を支えている。背中には、華奢な膝の骨が当たっている。
ぱた。
頬に雨粒が降りかかってきた。温い。
「お願いだから、目を開けて……!」
ガラス越しとは違う、はっきりとした響きの声。
夢でもあの世での出来事でもない。これは……。

目をこじ開ける。

水色の髪、浅葱色の瞳。透明な涙の粒。赤みを帯びた肌。
俺は、色鮮やかな色彩を持つ、太陽を見た。
薄暗い中でも、俺には分かる。太陽を初めて見たとき、人間はこんな、あたたかな心持ちになるのだろうと。
俺だけの、太陽。

意識がはっきりしてくる。
「うっ、ごほっ……」
肺に異物の存在感。黄緑色の培養液を吐き出す。
体が、重い。床につくほどの長い黒髪も。脳が詰まった頭も、伸びた四肢も。全てが重い。立ち上がったら、もっと苦労するのだろう。いや、むしろ、立ち上がれるのだろうか。こんな、細い体で。

「アビス……!大丈夫?」
彼女の声が、俺の鼓膜を震わせる。培養槽の中にいたときより、ずっと綺麗な響きだ。
「ル、ルピッド……」
肩や肘の間接を軋ませながら、彼女の頬に手を添える。柔らかい。ほろりと崩れてしまいそうだ。さらにくしゃりと歪んだ彼女の顔を見ながら、そう思った。
自分の声も、自分の体も、好きじゃない。俺と同じ声と体を持つ者はごまんといる。そう思っていたら、いつの間にか嫌になっていた。
「体が、重い……」
でも、声がある。体がある。生きている。愛する人に応えることができる。それは、俺だけのもの、俺だけの意思によるものだ。
彼女の色彩が滲み、目と目の間や鼻筋に、あたたかい液体が伝う。分厚く黒い布に覆われた片目も、しとどに濡れていく。
「俺……生きてるんだな」
俺は、彼女に出会えたことで、俺になれたのだ。
「そうだよ……ちゃんと生きてる」
彼女は、よかった、と呟いて俺を抱き締めた。
幸せだ。
でも。
培養槽のガラス一枚隔てた外の世界が、彼女が眩しすぎて、俺の胸中は黒い渦を巻いていた。

彼女が俺のことを特別だと思っている訳はない。
なのに、身勝手な欲望で、彼女を引き止めようとした。
醜い。
世界中に散らばった、俺と瓜二つの兄弟たち。声も顔も同じ人間たちのその中で、俺だけが、最も醜く見えた。

人間でいることが恥ずかしい。
人間以外になりたい。
クラゲになりたい。
面倒な感情に振り回されるこんな脳みそなんていらない。
ただ、水の流れに身を任せて、そこにいるだけの存在になりたい。
もはや、彼女を愛しているという事実さえ烏滸がましくなってくる。

彼女が愛してやまない、ゼラチン質の体を持つ軟体動物になれば。そうすれば、無条件に彼女に愛される、なんてこともあるかもしれない。
そんな馬鹿げたことを考えてしまう俺自身が酷く嫌になった。



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