祝福された瞳

2024.01.15



少年は、閉鎖的な小さな村で生きていた。
物心ついた頃から、両親も兄弟もいない。
ただ、右目の虹彩が、光を吸い込むかのような深い黒色である。それだけ。それ以外は、彼は心優しい普通の少年だった。
だが、村の人々は、太陽の様な少年の、たった一つの黒点のことばかりを言った。
『お前の右目は呪われている』
彼の右目が呪われているというはっきりとした確証はなかった。
それでも、彼らは、執拗に彼を汚いもののように扱う。
学校へ行っても、学べることは自分がどれだけ醜いかということだけ。買い物に出掛けても、何も売ってもらえないこともある。
気付けば、少年は全ての気力を喪失していた。薄っぺらな布団の上、天井を見つめ続けた。
辛うじて、腕を持ち上げ、右目の瞼をなぞる。

今ここで、この右目を潰す。
それだけで、全てがよくなるのなら、やってやる。

何日も洗えずに机上に放置していた汚れた皿。その上の、銀色に輝くフォーク。そこに手を伸ばしたとき。
彼の家の戸を叩く拳の軽やかな音がした。
まるで、陰鬱で重苦しい空気を祓うように。

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「スフォル」
研究所に足を踏み入れるや否や、弾かれたように彼の名を呼んだ。
黄緑色の液に満たされた培養槽の中の彼は、八重歯を見せて嬉しそうに笑った。
思わず、僕もつられて笑みがこぼれた。
「ルピッド!来てくれてありがと。学校帰りかな?」
「そうだよ!今日もコレ、いっちゃいますか!?」
僕は腕をぴんと伸ばし、彼にスケッチブックと色鉛筆の缶を見せつけた。
「あははっ、そ、そんな、居酒屋みたいに」
「居酒屋行ったことないでしょ!」
「そういうキミもでしょ、ふふふ」
僕は、いつも見逃さない。研究所の自動ドアが開く瞬間。彼が寂しそうに目を伏せていたのを。

今日も、家からも学校からも少し離れたこの研究所に足を運んだ。
僕と父さんの家の地下にある、アビスがいる研究所とは違う点がいくつかある。

ここは、ロボット研究員が在駐する、クローンを保護するための研究施設。彼らは、クローンを守りたいという志を同じくして集まった心優しいひとたちだ。
あそこは、父さんが一人で国から頼まれて戦争用のクローンを作る実験をしていたところ。当の本人は、アビス一人、そして僕一人を残して行方不明。

……考えていて、辛くなってきた。
僕は、血はつながっていなくとも父さんの娘なのに……なんで父さんが苦しんでいることに気付けなかったのだろう。
でも、気付いたところで、僕は何をしてあげられたのか、分からない。

「どうしたの?」
幼さが残る声を聴いて真っ白なスケッチブックから顔をあげると、彼が心配そうな表情を浮かべて僕を見ていた。
皆既日食のような眩しい黒と、培養液の黄緑色の中でも目が冴えるような蒼が、一つずつ煌めいている。
「……ちょっと、父さんのことを考えていたの」
僕は、やっと色鉛筆を動かし始めた。
「……ルービルトさん、だね」

父さんの名前。久しぶりに聴いた。
『クローンを作ることさえ倫理に反している行為なのに、それを戦争に送り込んで戦わせるなんて、人間の考えることじゃない』
父さんが行方不明になったあと、全てが明るみに出て、世の中はそんな意見で持ち切りになった。
家に報道関係者や野次馬が押し寄せてきて、僕はしばらくケフラさんとランちゃんのいるアジトに住まわせてもらっていた。
父さんの書き置きに、何かあったらここを頼れと殺し屋のアジトの住所が書いてあったのを初めて見たときはかなり狼狽えたけど、二人は父さんの古い友人で、父さんは二人に殺しを依頼したことなんてなかったと知った。彼らは父さんの一人娘である僕を家族のように受け入れてくれた。
世の中の流れはとても早くて、父さんのしたこと、そして父さんの名前さえも、聞くことはなくなっていったのだった。

「ルービルトさん、今、どこで何をしてるのかな」
平安時代の男の人が被っていた帽子みたいな形の浮き袋の輪郭を芯でなぞる。
「変な話だけど、会ったことはなくても、ボクにも少し彼の気持ちが分かる気がするんだ。ルービルトさんが、キミに辛さを吐き出したくてもできなかったように……」
その下には内臓みたいに折り畳まれた長い触手。
目が冴えるような蒼。
「……何かしたくても、何もできない。そんな気持ちが」
僕の心境も相まって、頭に毒が回ってくるようだった。
でも今は、落ち込んでいる場合じゃない。彼の痛みを知らない。そんなのは嫌だ。
僕は、電気のように痺れる激しい痛みがあろうと、目の前に垂れた彼の触手を離してはいけない。
目の前にいるのは、大切な友達だから。

「……少し、ボクの話をしていいかな」
僕は深く頷いた。

「『お前の右目は呪われている』。ボクは、住んでいた村でみんなからずっとそう言われていたんだ。ただ右目の色が真っ黒なだけで、確証もないのにみんなそう言う。右目じゃなくてその言葉に囚われて、ある日、目を潰そうとした。これで、全てがよくなるのならと」
彼が目を伏せて、右目の瞼を撫でる。
僕は言葉が出なかった。思わずスケッチブックと色鉛筆を置いて立ち上がって、培養槽の冷たい表面を撫でた。
「そう思ってた時、疎遠になっていた友達がボクの家を訪ねてきたんだ。その子は村長の孫だったから、ボクなんかに近付いたらダメだよと伝えたんだけど、『村が、おじいちゃんがどうとかじゃなく、ぼくがきみを助けたいから来たんだ』と言ってくれたんだ。その子の支えのおかげで、全てがガラッと変わった。みんな、少しずつボクと関わるようになってきて……喋れるように。食べられるように。普通に生きられるようになった、……ここで終わりで、ここで終わりが、よかった……」

「ルピッド。キミには言ってなかったね」
彼は右目を閉じ、左目を見開く。
すると、さらに蒼の鮮やかさが深まり、目を挟む棘のような模様が血が通ったようにきらきらと光った。
「この、左目のこと」

「穏やかな日々が続いていたある日、ボクは左目が霞んでいる気がして右目を閉じてみた。すると、ボクの家に来ていた彼に、一人の女の子の姿が被って見えた。彼女は痣だらけで、誰かに殴る蹴るの暴行をされていた。ボクは絶句して、彼にそれとなく伝えようとした。『お姉さんとか、妹さんとかいたっけ?その人の身に危険を感じるから、早く帰った方が……』そう言うと、彼は急に今までに見たことがないほどに怒り狂った。なぜ知ってるんだ、まさか誰かから聴いたのか、信じられないと。彼は家を飛び出して戻らなかった。なぜかって……?彼は妹と家を抜け出したあと、崖から転落死したから」

彼の涙が、黄緑色の光の中で粒になる。

「本当に呪われていたのは、左目こっちだったんだ。残酷なまでに数分の狂いもない未来が見える。でも、結果それだけ。大切な友達に、存在を隠され虐待されている妹がいたことは分からなかった。でも、彼が、妹を連れて遠くへ逃げようとして途中で転落死したのか、絶望して身を投げたのか……ボクを恨んでいるのかどうかも……分からない。過去にどれだけ意識を集中させても、何も分からない。未来だけは、嫌でも分かる。苦しんで、喜んだのも束の間、また深く沈んで、やっと気付いたよ。ボクは、命に呪われているんだ」
刺胞に刺されたみたいに胸が激しく痛む。
いつの間にか、僕も涙を流していた。

「彼に妹がいること。ボクが彼の心の脆いところを突いたこと。ボクが彼らを殺したも同然であること……ボクしか知らない。誰も、ボクを責めても裁いてもくれない。苦しくて、苦しくて、また目を潰そうとしてしまうことがある。今度は、左目を……毎日そのことばかり考えていたら、いつの間にかここにいた。ボクは、昔どこかから脱走したクローンだって分かった。どうりで身寄りが誰もいないわけだ。ここで、醜い自分の憎い左目を使って、国の仕事を手伝ったりしてる。本当は、やる気になれば国を滅茶苦茶にすることだってできる。でも……」

「した、くても、できなかったんだよね……」
やっと、喉の奥から声が出た。
「スフォルにとって、一瞬、僅かでも輝いてたこの世界を、壊せなかった……っ、でしょう……?真っ暗な闇だけじゃ、なかったから。死ぬほど苦しいけど、今から過去をどうこうしようってことはできないけど、今、残っているものを数えることはできる、でしょう……?」

「そうだ……見えて、きた……」
僕は、ぎゅっと目を瞑りながら頷いた。
僕にも、見える。目を開かなくても。

「ボクがいなくなったら、妹想いだった彼のことをここまで鮮明に覚えている人はいない。呪われた目も、彼と過ごした世界を見つめてた大切なものだった……なんで、見えなかったんだろう……なんでも、見えると思ってた、のに」
「スフォル……」
「ルピッド、キミもだよ」
「う、ん」
培養槽のガラス越しに、おでこをくっつけて泣きながら笑い合う。
「キミはボクをちゃんと見てくれていた。なのにボクは、キミがなんでこんな人間の傍にいてくれるのか分からなくて、目が、心が曇るときもあった。もう、大丈夫。キミが愛するクラゲの住む海みたいに、透き通ってるよ……」

白い紙の上に塗られた蒼は、もう毒のように重苦しくない。
この蒼はこれからも、美しい海の上を浮かび、爽やかな風を受け、どこまでも進んでいくのだろう。

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「ルピッド」
「ん?」
「どうしてボクがこんなに友達の縁に恵まれているのか、分からない……」
「嬉しいこと言ってくれるねえ」
「最初、どういうきっかけでキミと出会ったんだっけ……」
「ああ、それはね。家の地下の研究所に、キミと同じく未来が見える目を持つクローンがいて。彼のことを知ってる人はいないから、聞こうと思って、ここに……」
「え」
「……ん?」
「……妙だ。キミに被って見えた、片目を布で覆った、髪の長い男の人」

「特に、異能を持っているようには見えない……培養槽に入る必要もないはず」
「へ」

「普通の人間、だ」

ルピッド!後ろ!
彼の強ばった声を聞いた瞬間、冷たいものがボクの口元をすっぽりと覆った。背中にぞわぞわとした寒気が走る。
ばくばくと拍動する心臓の動きを感じながら、目だけを動かしてみる。
長い黒髪が頬に触れている。口元を覆うのは、体温を感じられないほど冷たい、真っ白な手だった。
……きっと彼だ。
ボクがいく先々で会う、謎の多い人。

彼の特徴を思い出してみる。
長い黒髪。黒い白目。頬に走る不思議な模様。真っ白な肌。

あれ?
考えれば考えるほど……アビスと、容姿がかなり似通っている。

それに、この人。
ボクは、この人を、知っている。



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