promise you the moon

2024.03.27



すっかり日が落ちて、冷たくなった屋根の上。座り込む俺たちふたりの黒い影。俺は煙草を咥えながら、暗い下界を静かに見ていた。
隣人の家は、生活の営みの気配さえない。あの日、パーティーの騒音で午前3時に俺たちを叩き起こして……それっきりだ。いや、違う。ここだけじゃない。アメリカ全土が、静寂に包まれている。以前にも増して、不用意な、不必要な雑音を立てなくなった。俺たちが手を加え始めたこの世界は、ここから一体どうなっていくのやら。

「ねえ、ジョン」
「なんだ」
名前を呼ばれ、頭を垂れたまま生返事をしたら、奴の手が俺の頬をなぞった。何か鋭いものを触っているようなその手つきに、惹かれるままに奴を見た。
「『月が綺麗ですね』」
白い仮面の穴を縁取る光。シニカルな笑みに歪んだ両目。
しばらくの間、目が離せなかった。
歪んだ正義に取り憑かれていた俺を救いに来た、天使でもあり。堕落した世界に正義の鉄槌を下しに来た、悪魔でもある。
月が人間の身体を借りて、ここに舞い降りてきたみたいだと思った。
……いや。こいつが借りてるのは紛れもなく、俺の身体なんだけど。

「は。なんだよ、急に口調変えやがって」
すう、と煙を吸い込み、吐き出す。こいつを見続けるこの両の目はとりあえずほっといて、意識だけは適当に逸らす。
「知らない?日本の文豪の逸話」
「さあな。逆に、俺が知ってると思うか?ロマンもへったくれもないような、こんな無骨な男がさ」
「ジョンって、意外とそういうの知ってそうだと思ったんだ。『相手の想いを確かめたい』、『自分の本心に気付かせたい』……。キミそういうの、好きじゃない?」
「俺がそういう奥ゆかしい感じのが好みだとしても、お前はそうじゃないだろ?お前はいつだって直球だから、そういうこと言われると変な感じがする」
「えっ!?なに!?『想いを確かめなくても、俺の本心はお前と同じだぜ』だって!?え~!どうしよ~!」
「ッ……お前の耳どうなってんだよ馬鹿」

「……それにしても、不思議だよね。世界が人間の都合のいいギラギラしたモノばっかりで埋め尽くされて、どんどんクソの山に堕ちていって。それなのに、空を見上げたらお月様とかお星様とかが、いつもちゃんとそこにある。ボク、こういう気持ち、ちょっと忘れてたかも」
奴の視線の先を見る。やはりそこには、銀のナイフのように輝く三日月が浮かんでいた。重い雲さえ、三日月の前を横切ろうとしない。浄化されるような、高潔な光だった。
「……やめるか?」
「やめないよ」
ぴしゃり、と水を弾くような低い声。
「何万光年離れても、変わらず届く光。それはそう、変わらないさ。でも、ここは違う。今ボクらのいるこの世界には、穢れが多い。クズどもが蠢く限り、荒んでいく一方だ。ボクたちは、今ここをなんとか浄化しなければならない。……でしょ?」
……なんだろう。意思が強固で安心した。でもなぜか、お前はもう休んでもいいんじゃないかという気持ちもあった。決して、俺が苦しいからじゃない。他でもない、こいつを休ませてやりたいと思った。こいつにあるのは正義だけ。俺のように正義と罪の意識の板挟みになる苦しみなどは、決してない。それは、分かっているはずなのに、俺は……。

「今ならさ、手を伸ばせば、取れそうじゃない?」
虫を潰して遊ぶ子供のような純粋な残酷さが宿る指先が、乾いた空気を撫でる。
「ジョンは、ボクのこと一番分かってくれてるひとだから。せめて、綺麗なモノ……あのお月様、プレゼントしてあげるよ」

月の引力か、はたまた魔力か。
頭にカッと血が昇ったみたいに、目の奥が熱くなる。

「……いらねえ」
「あれ?今日は、ばかだなーとかあんまり言わ、ないね……」
「いらねえよ、んな、もん」
紫色のシャツに額を押し付けて目を食いしばると、膝に雫が滴った。
まるで飼い犬にするみたいにわしわしと髪を撫でられる。
俺の高い声が困ったように笑う。
「へんなジョン」

俺はどうやら、こいつに入れ込んでるらしかった。

こいつはいつも、出来もしないことを約束する。正義の下で世界を浄化するのもそう。俺のために月を取ってくるなんてのもそう。つくづく馬鹿げていると思う。
でも、約束してくれるだけでいい。
このまま全てが昏いままても、お前との約束が月のようにぽっかりそこに浮かんでさえいれば……俺の光であればいい。
お前は、俺のたった一つの真実。お前は俺の、愛おしい月だ。

顔を上げ、奴の仮面をずらすと、俺は食むように唇を奪った。
「『死んでもいいわ』」
……いいよ。お前となら。



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