カルーア・ミルク
2024.06.13
水を注いだコップの表面が、薄く、ショッキングピンクやライムグリーンの光を返すのを眺めていた。
ノることだけが目的のクラブミュージックを垂れ流すスピーカー。そこからできるだけ離れて会場の端まで来てみても、低く唸る音圧でいまだに水面が微かに震えるほどだ。
キャンパスで最近話すようになったクラスメイトに誘われて来てはみたものの、本人は結局用事で来られなくて、私は一人。私は、こういう場所が絶望的に合わないことを知った。お酒は舐めただけで舌がピリピリして全然美味しくない。全身に無駄な力が入って疲れるし、話しかけられても愛想笑いがひきつって見られたものじゃない。誰もが踊り、酔い、騒ぎ、楽しみ尽くすためにここに来ていて……私だけが、いつまでも冷静にこの状況を傍観することしかできない。
耐えられなくてそそくさと外に出て、こうしてただ新鮮な空気を吸っている。……水。この会場で提供される飲み物の中で、これが一番美味しい。間違いない。
先程から何度も時計を確認しているのに、秒針が止まったかのようで、時間が経つのがとても遅く感じる。
今ちょうど、夜の九時を回ったところ。日付が変わっても誰もお開きにしようと言い出しそうもないだろうと思うほど、ここに来る人たちは皆エネルギッシュだ。私とは大違い。
「キミキミ!もしかしてひとり!?」
誰もいないこの場所に、興奮したような声が反響する。驚いて心臓がどくっと鳴った。
「オレらと一緒に飲もうよ!ね!」
そちらに辛うじて顔を向けようとした瞬間、短い金髪の男が私の顔を覗き込んできた。充血気味の目。赤ら顔。黒いタンクトップから覗く過激なタトゥー。小さく叫びそうになる。男の後ろに似たような背格好の男が二人もいるのを見てしまい、喉がぎゅっとなった。
こういうときって、どうやって切り抜けたらいいんだろう。うっかり怒らせてしまったら、頬を張られたり、それ以上の危害を加えられるかもしれない。
「ご……ごめんなさい。今、具合悪くて。休んでて、それで……」
「だいじょぶだいじょぶ!こんな暗いトコにいるより中に入ってさ、バーに行こうよ!ねぇ!?」
ついには強く手首を掴まれ、立ち上がらせられる。
手から滑り落ちたコップが暗闇に落下して、まだ残っていた水と結露したガラスが粉々に飛び散る。
恐怖で滲んだ涙が乾いた気さえした。
何か、頭が熱くなった。
喧噪の中で見つけた唯一の安寧さえ、こうやって、容易に脅かされる。
これだから、パーティーなんて……!
「……やっと見つけた」
聞き覚えのない低い声。ぎゅっと瞑った目を開けると、視界の下半分に鮮やかな紫色が滲んでいた。
「探したぞ」
顔を上げると、夜の空よりも黒い黒。
え、と情けなく声を漏らしながら涙を拭う。
知らない男の人だ。黒髪で、紫色のシャツを着ていて。年齢は……パパと同じくらい、かな。
「彼女は俺の姪だ。こんな場所にはあまり慣れてなくてな。彼女も俺も、お前らと関わる気は一切ない」
背が高い彼は、いつの間にか凄むような威厳のある顔で、男の手首をがっしりと掴んでいた。
「……分かったら失せろ」
「怪我はないか」
そそくさとその場から立ち去る三人の背中を見届けながら、彼はばつが悪そうに言った。
「は、はい。……ありがとうございます。貴方は……?」
彼は眉間に皺を寄せながらううんと唸る。
「本当のことを言った方がいいのか……」
「え!ほんとに私の伯父さんってこと!?」
「……ち、違っ、フッ、そうじゃないって、そっちじゃない」
あっ。笑った。一本筋が通った頑固そ……真面目そうな顔立ちをしているのに、笑うとこんなに優しい顔になるんだ。
「ジョン。ジョン・ウェスト。……警察だ。捜査官としてとある事件の犯人を追っている」
へえ、警察か……警察!?
「え。……えっ!?けっけいさっ……!」
「声がデカい。嘘じゃない……紛れもなく、本当のことだ」
さっきまで優しい顔をしていたのに、一転してふっと寂しそうな顔になった。気がした。
すっかり毛嫌いして近付きもしなかったパーティー会場の片隅のバーは、意外なことに静かで、私たち以外には客は誰一人いなかった。
「お水ください」
バーテンダーにそう告げると、バーテンダーはとても驚いた顔をして、彼は堪らないといった様子で吹き出した。
「じゃ、俺も水」
「お前さ。パーティーが嫌いなんだろ」
すぐに提供された水に口をつけてすぐ、図星を突かれた。また水をぶちまけてしまうところだった。
「……悪い。お前があまりにも幼い顔立ちをしてるからてっきり未成年かと思って、マークして遠くから見張ってた。そしたら、テラスで物思いに耽ってるフリして、バレないように注がれた酒を捨ててたのを見ちまった。……凄く、ロックだなって思った」
「ロ、ロック……?かなあ?」
言葉のチョイスが絶妙に一昔前で面白い。やっぱり、パパと同じくらいの年齢なのは間違いないだろう。
「ロックといえば。俺は酒を頼むぞ。ウイスキー、オンザロックで頼む」
明るい場所で彼を見ていると、喉元までぴっちりとボタンを締めたシャツと、少し乱れた髪や目元に深く刻まれた隈の対比が印象的だと思った。最近、ちゃんと眠れていないのかな。
「お前も何か頼むか?いや飲めないんだよな」
「早い!決めつけないで!そりゃあ、甘くて飲みやすいのなら飲んでみたいよ。でもお酒の名前とか、味とか、分からないしなあ」
彼は頬杖をついて少し考えたあと、バーテンダーに小さな声で告げた。
「……彼女に、カルーアミルクを」
なんか、美味しそうな名前。
「ていうか貴方、こうしてるとバーとかお酒とかは慣れてそうだけど、私のこと言えないくらいパーティー嫌ってそうよね」
彼はう、と呟いてカウンターに突っ伏して、大きな溜め息を吐く。図星だ。
「……ああ。嫌いだよ。クソほどな」
大きな氷が浮かんだ、目が覚めるような金色の酒。彼は私がさっきまでしていたみたいに、その水面をじっと見つめてから飲み下した。
私の目の前にもその、なんとかミルクが出てきた。お酒とは思えない見た目だ。コーヒーのいい香りがするし、まるでデザートみたい。
いただきますと呟いて、怖がりもせずに一口飲む。
……美味しい!
「そうか。美味いか」
声に出てて恥ずかしい。でも、飲みやすい。お風呂上がりで喉が渇いているときみたいに、ごくごくいけちゃいそうな口当たりの良さ、味のまろやかさに驚く。
「飲みすぎるなよ」
「あはは、パパみたいなこと言って……」
彼が、息の音さえも止めて、静かになる。
今にも泣きそうな、苦しそうな、何かから救ってほしそうな、そんな顔で私を見ていた。
「俺な……本当に。本当に自分勝手なんだが……君と話していると……君と同じくらいの歳の一人娘を思い出して苦しくなる。また、彼女に会えて嬉しいような、彼女を守れなかった自分が憎くて、罪悪感で全身が軋んでいくような、そんな気持ちになって……」
「……ジョン」
彼の娘さんはもう、この世にはいなくて……。
グラスを取り落としそうになるのを堪えながら、もう一方の手で彼の肩に触れる。
「……カルーアミルク。誰かが勝手に付けたカクテル言葉ってのがあって、それが、『臆病』。君に、『お前は喧噪が嫌いなんじゃなくて、喧噪が怖いんだろう』って言ってからかいたかったのに。俺も、いや俺は君以上に、臆病者そのものだった」
「怖い。……幸福でさえも、再び来たる不幸へ堕ちる穴の入り口のようで、足が竦むんだ」
彼の肩の震えが腕に伝わって、グラスの底を這う氷たちを揺らす。
「……本当に自分本位な、老婆心どころかジジ心なんだが、君はずっと変わらないままでいてくれると嬉しい。臆病なままだって、怖くたって、真摯に前を向いて歩くことはできるんだ」
彼は、私の手を取り、手のひらに冷たい頬を擦り寄せた。
こんな、私こそが壊れそうな彼をどうにかしてあげなくてはならない状況なのに、脳にアルコールが回ってしまったのか、全身の力が抜けそうなほどの壮絶な眠気に襲われてしまっていた。
「臆病さが裏目に出て、大切な人たちを傷付けないように。傷付ける前の自分には決して、戻れなくなるから」
それだけは、覚えていてくれ。
「あっ、やっと起きた~」
聞き覚えのある声。でもそれは決して低くなく、高く聞こえるように声を作っているみたいに感じる。何回も瞬きをすると、視界の下半分に鮮やかな紫色が滲んでいた。
「待ってたよ」
顔を上げると、夜の空よりも黒い黒。
え、と声にならない掠れた声を漏らしながらぼやけた目を擦る。
私はこの人を知っている。黒髪で、紫色のシャツを着ていて。真っ白い、仮面。年齢は……パパと……同じくらい……。
え。
……知らない男の人だ。
「も~。すきっ腹にガバガバ~ってお酒入れちゃったんでしょ。体に良くないよ」
背が高い彼は、バーカウンター越しに身を屈めて、私にぐっと仮面で覆われた顔を近付けた。
「でもそれって、最高にロックだよねえ」
「貴方、誰……?」
「さあ。誰でしょう~?」
「ジョン、じゃない……わよね」
「じゃないね。そっちじゃない」
仮面の奥でニタリと笑った。彼と同じく、笑ったら優しい顔になるはずなのに。なぜこうも、何もかも違うの……?
「ダリウス。ジョンが担当するパーティーハード殺人事件の犯人。彼の一人娘を殺したのもボクだよ」
肺が潰れそうになる。驚きのあまり声も出なかった。
「ウソじゃないよ。紛れもなく、ホントのこと」
さっきまで愉快そうに歪んだ目をしていたのに、一転してふっと感情を感じないに目になった。確実に。
さっきまで彼といたパーティー会場の片隅のバー……いや、このパーティー会場そのものは、痛い耳鳴りがするほど静かで、私たち以外には客は誰一人いなかった。
現実感がないほど不気味すぎて、でもこれが本当の現実だと理解させられて、膝が戦慄く。
「……貴方は、ここにいる、けど。他の……みんなは?」
彼にそう問いかけると、彼は少し驚いた顔をして、懐から財布を取り出すみたいにカウンターの下からバーテンダーの亡骸の襟元を掴んで私に見せた。
「こういうこと」
「キミさ。パーティーが嫌いなんでしょ」
唾液がカラカラに渇いた口をぐっと噤む。もはやこのやり取りは地雷。怖くて堪らないのに、静かな怒りがふつふつと湧き上がってくる。
「……何が目的なの?」
「おお~!その目!凄くロックだねえ~」
……調子が狂う。ペースが乱される。
言葉のチョイスは彼と同じだけど癪に障る。彼の肉体の年齢は彼と同じであるのは確かなのに、どうしてこうも幼いのだろう。
「ロックといえば。ボクはお酒を飲んじゃうよ!ウイスキー、オンザロックね!」
彼を見ていると、ボタンを外して胸元を大胆に開けたシャツと、綺麗に整えられた髪、深く刻まれた隈を感じさせないほど爛々と輝く瞳、その全てが刃物のように鮮やかに光り、目が眩みそうだと思った。彼を休ませることなく操っていたのは、貴方だったのね。
「キミも何か飲む?いや、飲めないのか~」
「やめて。……何もいらない」
彼は頬杖をついて少し考えたあと、自身の胸に手を当てて呟いた。
「……キミに、カルーアミルクを」
今それを飲んだら、心底不味くなりそう。
「貴方も、パーティーが嫌いなのよね」
彼は、色のない空っぽの瞳を細めて言う。
「うん。嫌いだよ。クソほどね」
大きな氷が浮かんだ、目が覚めるような金色の酒。彼はその水面をじっと見つめてから、仮面を少しずらすと、舐めるように飲んだ。
その唇は、紛れもなく……彼のものだった。
私の目の前に、カルーアミルクが出された。色が、薄い気がする。コーヒーの香りがして、瞼の裏でそっと彼を思い描いてしまう。
いただきますも言わず、一口飲む。
……甘くない。
「そうそう。割る牛乳の量を増やすとね、アルコール度数が低くなる代わりにそうなっちゃうの」
声に出てた。いつの間にか隣に彼がいた。吐き気で胃の奥が渦巻いてるときみたいに、何も受け付けられないような気分の悪さ。ほろ苦さ。
「『臆病』。貴方も、そうなの?」
「……そっか。ジョンも、コレを」
彼が、血流を止めたように、静かになる。
「ジョンと考えてること一緒かあ。……恥ずかし」
「ボクね……ボクらね。同じ正義への信念の下で、クソの山に堕ちていってるこの世界を浄化していってるんだ。善いことをしているんだよ。彼女は、そのために尊い犠牲になったんだ」
「ダリウス」
一体何を、言っているの?
グラスを取り落としそうになるのを堪えていると、彼が私の肩に触れる。
「カルーアミルク。『臆病』の他のカクテル言葉を知ってるかな?」
「『悪戯好き』」
天使のような口調で、悪魔が笑っている。
「こうなるかも、怖い、だけじゃなくて、こうしたらどうなるんだろう、面白そうって考えちゃうこと、あるでしょ」
彼は、私の手を取り、手のひらに仮面を着けた頬を擦り寄せた。
「キミは、騒がしい、煩わしいものから一歩引いてそれらを傍観してる。でも、何らかのショックでタガが外れたら、自分でもどうなってしまうか分からない……そういう側でしょ?」
こんな、私こそが壊れている彼をどうにかしなくてはならない状況なのに、彼の言葉に囚われてしまったのか、全身が固まって動けなくなってしまっていた。
「きっとジョンは、一人娘の面影を感じるとか、自分と似て臆病そうだとか、それだけでキミが目に留まったワケじゃないと思う。キミも……そう思うかい?」
同類の因子があると。そう言われている。
なのに、怒りが湧いてこない。
私は確かに、男に絡まれたとき、危うかったからだ。
これだから、パーティーなんて、台無しになればいいと思った。
「私も……『なれ』って……言うこと?」
「いや。キミは、殺しをする理由も、ここで殺される理由もないよ」
「……キミはここにいるべきじゃない」
彼の手が悪戯に私の髪を撫でる。
「もうここには用はないよ。ケーサツに現場を調べられると面倒だから、ここには何も残さないようにね。髪の毛とか」
「次は、ボクに殺されないように」
バイバイ。
彼は子どものように手をひらつかせて、去った。
彼と彼、どちらでもあるかのような眼差しで。
大切な人たちを傷付けないように。次は自分に殺されないように。
それが彼らの願いであり、私も死ぬまで穏やかに生きたいと願うのなら、そうするのが正しいのだろう。ありのままで、生きるのが……。
正義の行使にも幸福の到来にも臆病な彼。
堕落した世界に揺さぶりをかける悪戯好きな彼。
まるでコインの表と裏だ。
私はどうにも、彼らに想いを巡らせるのをやめられない。
またいつか、会えるだろうか。
……もちろん、パーティー会場以外の場所で。