Promise
2023.11.15 2023.12.04
……あたたかい。
こんな感覚、生まれて初めてだ。
槍に貫かれた、胸の虚。その奥が、不随意にぎしりと軋むようだ。しかし、不思議と苦しくはない。
冷たい鉄板を撫でるように、表面上でしか動かなかった私の心。それが今は、憎しみ、悲しみ、怒り、妬み、嫉みなどとは、別の方向に動いているのを確かに感じる。
私の目の前に立ち、私にその手を触れさせてくれた彼は、人間か。はたまた、ロボットか。一体どちらなのか。そんなことを考えるのさえ烏滸がましいと思える。
アトム。
まさに、核融合そのもののようにめっぽう強いのに。それなのに、あらゆる弱きものを平等に包み込むような優しい心を持っている。
彼は、太陽そのものだ。
私がもし、血が通った人間として生まれていたならば、一身に彼の陽射しを受け、指先に透ける朱い血潮を見られたのだろうか。
いや。こうしていたならば、なんてふざけた考えは野暮だ。
私は少なくとも、今。彼に救われているのだから。
私よりずっと小さく、柔く、あたたかい手が。細く、いとも簡単にへし折れてしまいそうな指が。ゆっくりと離れていく。
「じゃあ、頼みます」
そう言って彼は、決意したような横顔を見せ、私の元を後にしようとする。
もちろん知っている。彼も私も、行かねばならないのだ。
「アトム」
それなのに、まるで残った左眼を力づくで剥がされるかのような、痛みに似た喪失感を感じて、私は彼の名を呼んでいた。
「約束してくれ……」
彼は、すぐに私の方を振り返ってくれた。美しい光をたたえる瞳が私を捉える。それが、嬉しかった。両眼の奥が、熱くなる。
「また……会おう……」
私は、行けば帰ってこられないことは分かっている。こんな約束なんてものは、意味を持たない。
でも、私は、彼と。他でもない心の友と、他愛ない約束をしたかったのだ。
彼は、少し驚いたような顔を見せると、すぐに頬を緩ませた。私は初めて見る子どもらしいそれに見惚れて、その表情のままの彼が駆け寄ってくるのに気付くのに時間を要した。
小枝のような、彼の小指が、私の左手の薬指に添う。
「『指切りげんまん、うそついたら針千本飲ーますっ』」
歌を奏でる彼の声。呆気にとられている私の体から鳴る電子音が、やけに喧しく感じた。……情報過多だ。処理しきれない。
「……私が嘘を吐くと疑ってるのかい?」
やっとの思いで声を絞り出した。
「物知りなあなたでも、知らないことなんてあるんですね。誰かと約束事をするときに歌われる歌なんです。約束を必ず守るということを誓い合って、破った場合にはひどい罰が下る、っていう」
「へぇ……じゃあ、君には針を千本飲ませなきゃいけないねぇ。君は完璧な人工知能だ。すぐ嘘を吐くから。君が針を千本飲んだら一体どうなるのか……実に興味深いよ」
私はこれから、君にまた会うという約束を破ることになる。だから、私には罰が下されるのだ。
もう二度と、君に会えないという、残酷な罰が。
私の心は、その事実に掻き乱されていた。
「『指切りげんまん』も、指を切ったり、げんこつで一万回もぶったりするくらい大切な約束だから、ちゃんと守ろうね、って意味なんですよ」
「ククク、君にそんなことをされたら、指どころか全身が塵になってしまうよ。分かった分かった。私は絶対に、君との約束を守るよ」
この指が離れていってしまうのならば、君と二度と会えないのならば、ここで私を塵にしてほしい。塵にせずとも、その手でこの槍を引き抜くだけでいい。そうすれば、私は……。
熱で回路がショートしそうになる。
いや、違う。
終わりがあるからこそ、意味がある。終わりがあるからこそ、美しい。
私は、今自分が、人間と同じ領域……立場にいることに気付いた。
あたたかく弱い人間たちのために。世界のために。そして、君のために、私は終焉を迎える。
なんと……なんと美しい。
君との出会いは、夜の空に輝く星のような。何万光年先にも届く、光のような美しいものだったよ、アトム。
いつもの調子で、そう言えたのに。今は言葉が詰まって、何も言えなかった。
「……『指切った』」
彼の言葉とともにその指が、そっと離れた。彼のぬくもりが、私の暗雲を振り払ってくれた。もう、辛くはない。
「また会いましょうね。約束ですよ」
彼は、両目を細めて優しく微笑んだ。三日月がふたつ並んだようだった。私の顔には、その表情を形作る薄い皮膚さえない。私は、嬉しいときも、悲しいときも、憎いときも、楽しいときも、同じ顔だ。でも君には、分かるのだろうか。私のこの、感情が。
「……ああ」
分かってほしいような。知られるのは流石に憚られるような、複雑な感情。
……こういうのも、嫌いじゃない。
私の元を去る彼は、決して振り返らなかった。
私は、彼と同じ意志をもって、別の闘いに赴く。
――彼の道を切り拓く、一人の騎士として。