私のスピカ

2023.12.04



これは、なんという……。なんということだろう。
鉄に似た冷たく暗い青に包まれた虚ろな空間。そこに今、白い光が、迸るように輝きだした。
光の届かない深海から、光に溢れる天空に誘われたような解放感。
無重力に身を任せ、宇宙を漂っているような浮遊感。
……心が、浮き立っている?
「わあ、綺麗」
感嘆の声を聞き、小さな背中を私に預けている彼に目をやる。
額に掛かる髪や、顔の起伏が作り出す陰影が様々な表情を見せる、その凜々しい顔立ち。潤んだ光をたたえる瞳に映る白い光。あたかも水晶体が形を変え、眼に入った光が網膜上に像を結んでいるかのように錯覚してしまう。
息をする必要などないのに、息を呑む。そしてまた、星を見上げる。

私は、二度見惚れたのだ。この満点の星空と、それを共に眺める、この一番星に。

「……美しい」
私に声帯があったなら、声が掠れてしまっていただろう。飛び出したのは正真正銘、心からの言葉。飄々とした調子の軽い言葉は、無い皮膚に包まれた喉の奥で詰まって出てこなかった。
「あなたが喜んでくれて嬉しいです」
彼は、私の目を見て、楽しそうに笑った。こんな顔、初めて見た。

彼は、今日も私に会いに来てくれた。それも、興味深いものを持って。
それは、ロボット処理場で子どもたちがサッカーボールにして遊んでいた、家庭用のプラネタリウムだった。

『たった一台のコンピュータ。それさえあれば夜空の星はもちろんのこと、何光年も離れた巨大な星雲や惑星でさえ、どこにでも投影して楽しめるこの時代だからね。一つの機能しか持ち合わせていないこの機械に飽き飽きした誰かが捨てたんだろうと想像がつく。君は、どうしてこれを?』
私は、彼から受け取った丸い機械を指の欠けた手で弄びながら言った。

彼の返答は、こうだった。
『僕は、これを見てすぐ、何かに突き動かされました』
『他でもない……あなたと星を見たいと思ったんです』

これは一本取られたと思った。
彼の意志は、流星のようにまっすぐに私の胸を貫いていったのだ。
素直に、言葉にできないほどに嬉しかった。
『共通の話題』として、『ひとつ500ゼウスで買ったのかな?』そう言って揶揄おうと一瞬でも考えた私が、酷く醜く感じた。彼を傷付けることを口走ろうとした事実。忘れてしまいたいと思った。できるものならば。私が私である限り、憎しみの嵐が心を抉った痕も、降りしきる理不尽さへの無力感も、忘却することは決して有り得ないわけだが。

「とても綺麗……ですけど、天井が思ったより高いし、壁も崩れてゴツゴツしてるから、小さな星が少し見づらいですね。そこまでちゃんと考えてなかったなぁ」
「そんなことはない。私は充分、いやそれ以上に感動しているよ、アトム。君は本当に……心優しいね」
私自身でさえ、ここまで私を想えないよ。

「あっ、あれは僕が好きな星座です」
彼が天井を指し示す。
「驚いた。君は星座の知識もあるんだね。ふむ、どこだい」
「あそこです!はえ座!」
思わずククッ、と笑ってしまった。これは予想外だ。
「その方向ならば、てっきり南十字星かと思ったんだが。まさかその下とは夢にも思わなかった。ククク……」
「肉眼で見えにくいものから手のひらより大きなものまでいる数多くの虫たち。彼らを代表して唯一星座になったのが、なぜか蠅。面白いですよね」
彼は絶妙に指差す角度を変えながら言う。
「みなみのさんかく座です。あれも、僕の好きな星座です」
「さんかく座?記憶によれば、初めて聞いたかもしれない。安直だが、夏の第三角形とかそういうものとは違うのかな」
「3つの星を結んで、三角形を作った……それだけの、驚くほどシンプルな星座です。ロマンチックな神話などはありません。しかも、みなみのさんかく座の他に、『みなみの』がつかないさんかく座もあります」
「クックック……アトムよ……」
私は、垂れ下がった片目を揺らして笑う。
「……旧友よ。君のその言葉だけで、君の生き方がひしひしと伝わってくるようだよ」
彼は、どこか分かっているような。しかし、初めて知るような。円い目をして私を見た。

アルファケンタウリ。ガクルックス……華美に強く輝く星を持つ星座の近くで、静かに光る星座たち。彼らには、美しく感動的な神話も、圧倒されるような伝説もない。
私もそうだ。何もない。静かに、ただそこにいるだけだ。……そう思っていた。彼と心を通わせるまでは。

「目をこらさないと分からないような鈍い輝き。それを何度でも見つけ出しては、慈しむ……」
私に目の周囲を取り囲む薄い皮膚があったのなら、私の目はあまりの愛おしさに細まっていただろう。
「全てに平等に、あたたかさを分け与える。君は、そういう子だ……」
そして、目の奥から、あたたかいものが込み上げていたのだろう……。

冷たい闇の中。幸、不幸……それすら存在しないような世界。その中にいてもなお、彼は私を見つけ出してくれた。自分が存在していることすら忘れてしまいそうになっていた私を。
闇に包まれていたからこそ、光に気付くことができた。

「君に出会うことができたんだ。私は、少なくとも……」
ロマンティックな逸話はなくとも、今現在に至るまで長く語り継がれている星座たちのように。
「……報われていると。そう思うよ」

「……ブラウさん」
今まで見ていた大人びた顔が、一気に幼く戻る。彼は、目の縁にいっぱいの涙を溜めていた。それは、銀河のようにきらきらと輝く。
私は、それが頬を伝う前に指で拭った。彼の柔い頬に傷を付けないよう、細心の注意を払いながら。
「そう、思ってくれて、よかっ、た……」
「ありがとう。アトム」

生命は、恒久ではない。それが太陽のような恒星の命であってもだ。星の中心部の水素がなくなり、核融合反応ができなくなれば、その星は終末へと向かう。いつしか終わりが来る。
だが、彼のために終わるのなら、いい。君ならば、私のこの朽ちた体を灼いて、己のエネルギーにしてもらって構わない。でも、そのときまではこうして時間を共にしていたい。
……あたたかい。
いつの間にか彼の体を、壊れないように抱き締めていた。

「ブラウさんは、好きな星座とかありますか」
「そうだね、私は」
あれかな。腕を軋ませながらとある星座を指差す。
「ああ、あれ……なんでしたっけ……うーん……」
「まだお勉強が足りないみたいだねぇ、ククク……あれは、うしかい座というんだ」
「うしかい座、ですか……。なぜ好きなんですか?」
「あのオレンジ色の一等星は、アークトゥルスといってね。かなり年老いているのに、とても明るく光る。あの星には、どこか憧れを抱いている節があるよ」
「力強く光ってる。……綺麗ですね」
川のせせらぎのような時間がただ、流れていった。

「僕、さっき、星座の話をしましたけど」
彼は、プラネタリウムの電源を切りながら、決意を新たにしたような声で呟いた。
「憎しみを産む悲惨な歴史も、星座のように未来永劫語り継がれていく。誰もが幸福に生きるにはどうすればいいのか。それについて考えていく。決して、完全な悲劇のままじゃない。全ては、僕らを形作ってくれるんです。きっと」
私の方を振り向いた彼の顔は、慈愛に満ちたものだった。
「先人たちもこうして、思い悩んだときは遠い昔に想いを馳せて頑張っていたと思うと……ここで挫けてちゃいけないんだと感じて勇気が出るんです」

ああ。アトム。
青白く輝く一等星。
私のスピカ。
心が昂ぶって仕方がない。
おまえは、なんという……。

もはや、声も出ない。
また来ますね。
そう言って手を振る彼を見送った。

……私の中の騎士の青は、すっかり身を潜め、色褪せてしまった。だが最後、私の行く道を照らしてくれた彼のために、振り絞れるだけの力は残っている。
もし彼が背中を押してくれるのなら、私は完膚なきまでに鉄槌を下そう。

私は、アークトゥルス。
その意は、「熊の番人」。



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