ノースポール
2023.12.19
「今日は一段と冷えるな」
私は彼の唇がふるふると戦慄き、白い息が吹き出されるのを見た。
「ダンカン様。お体に障ります。本日は屋内でお茶を召し上がってはいかがでしょうか」
「いや、いい」
彼は湯気をくゆらせるティーカップに触れ、暖を取ってから、一口紅茶を飲んだ。
「……ここにいると、毎日違った新しい音が聞こえる。私は、ここでおまえの淹れたお茶を飲みながら寛ぐのが好きなんだ」
「音?」
「そうだ。風。鳥の囀り。木々や草花が揺れる音……全てだ。ここにたった一人でいた頃は、全てが耳障りな雑音に感じたがね。今は違う」
彼の口角が、穏やかに吊り上げられる。
「常に繊細に移り変わり、一つとして、完全に同じものはない。私がいつも母さんと見ていた、美しい故郷の風景のようにな」
故郷の風景、それにお母様を想う彼の顔は、もう苦しみで曇ってはいなかった。
私の心も、どこまでも晴れ渡るかのようだ。
彼はやはり寒いのか、再び紅茶を飲み、身震いしながら鼻を啜る。すると彼は、不思議そうに顔を右往左往させ、数回鼻を鳴らした。
「……ん?」
「どうなさいました?」
「……風に乗って、チーズのような香りが漂ってきた。おまえ、菓子でも作ったのか」
「いえ」
チーズ?特に、チーズを使った料理は作っていない。なぜだろう。
彼は杖を手に取り立ち上がると、嗅覚を頼りに小刻みに歩みを進めた。
「ここだ」
彼が歩みを止め、そっと片膝をついた場所は、扉の近くに置かれた鉢の前。
そこには、黄色の芯を中心に白い花弁が並ぶ、小さな菊の花が咲いていた。それも、花束のようにいくつも……まるで胸を張るように。
思わず彼の傍に歩み寄ると、目には明るい色彩、鼻にはチーズのような強い香りが飛び込んできた。
草花が消え、殺風景になった冬の庭で唯一咲き誇る花。そのこぼれ種を拾い上げたのを、昨日のことのように思い出す。
そうだ。この花をここに植えたのは私だ。
「ノース2号?どうした?ここには何が……」
ハッとした。私は彼の執事。主人を置いていくなど、言語道断だ。
「……失礼しました。ダンカン様。どうやらこれは、お菓子の香りではなかったようです」
腕を伸ばして彼の手を取ると、花全体の形をなぞるように指先を触れさせた。
「……花、か?そうか、思い出した。車椅子で庭に出るとき、なんとなく漂ってきた香りだ。おまえの料理の香りじゃなかったんだな」
彼は感嘆の声を上げる。私たちは花を通し、同じ記憶を呼び覚ました。そこには、ロボットと人間としての境界は感じられない。
「こんなに小さな花なのに、葉は鋭く切れ込んだ形をしているんだな。まるで、鋸のようだ」
彼の骨張った指先が、葉を撫でる。
それは、私の体に搭載された刃そっくりだと思った。次いで、戦争の記憶が引き摺り出される。私は……もう戦争には行きたくない。
「ノース2号」
「はい」
「この花は、どんな色をしている?私に教えてくれ、お前の言葉で」
「色……ですか」
「正確に表現しなくてもいい。お前の表現する色が知りたい」
嫌でも鮮明に浮かんでくる戦争の記憶。それが、彼と出会ってから今までの思い出で塗り潰されていく。
「花弁は、青空高くにたなびく雲のように白く」
私の頭上の空は、汚れても、荒れてもいない。
「芯は、太陽の陽射しのようにあたたかい黄色をしていて」
今の私には、光がはっきりと見える。
「私は……強く高潔に咲く、この花が好きです」
音楽、それに日々への愛をくれた彼に、これからも仕えていきたい。
「……ああ。見えるよ。おまえが自分の言葉で伝えてくれた色が……」
とても、綺麗だ。
そう呟く彼の背中は震えていた。
……私の心も。
鼻を啜りながらゆっくりと立ち上がった彼の肩に、小さな白い粒が舞い降りてきた。
「ダンカン様」
「おお」
見上げると、雪が降り出していた。
彼の言う通りだ。この雪の色も、雲とは違う色に感じる。同じ白でも、完全に同じではない。私もそれが愛おしいと感じる。
「聞こえるか、ノース2号」
「はい。確かに」
「……冬の足音だ。今しか聴けない、快い音色じゃないか。なあ、ノース2号」
少年のような悪戯っぽい彼の表情に、私の口元にも笑みがこぼれる。
そんな、幸福なホワイト・クリスマス・イブだった。