sewing

2024.05.24



この可能性を、少なからず考えてはいた。時には、恐れることさえした。

バチバチと音を立てながら、向こうが黒く燻っている。
憎しみに満ちた目は、私だけをただまっすぐに睨む。
蒼く冷たい空間。そこに現れた、朱い意思。

こんな形で君に来てほしくはなかった。

彼は、丁寧に編んだ糸のように、全てを包み込む広い心を持っていた。空気の層を含んでいるかのような、確かに感じられるあたたかさがあった。
それが既に、憎しみの炎に灼かれ、小さく固く、黒く焼け焦げ、細い煙をたなびかせている。
……世界の終焉の狼煙だ。

私は、君が教えてくれたあたたかさが好きだった。でも、これはあまりにも熱すぎる。君には、自分が得たあたたかみを、そっと分け与えるような、優しさがあるはずなのに。そんなに熱くては、触れる前に、肉……鉄でさえも、ほろりと崩れ去ることしかできない。

分からない。
これは、私の勝手な想いの押し付けなのか?
分からない。だが、これだけは分かる。
君にだけは、そんなに苦しんで欲しくはない。

頼りない貧弱な思考だけが、糸屑のようにごしゃごしゃと絡まっていく。
私に口があれば、口角を歪ませていた。唇を噛んでいた。奥歯を軋ませていた。
これじゃあ、針穴のようなごく僅かな糸口を見つけることさえ叶わない。 

「アトム」
彼の名前を呼ぶ。
私の声でそれを紡ぐ。それだけで、彼を深淵から救い上げることができたなら、よかったのに。

こんなことになってしまったのはどうしてか。
彼を変わり果てさせたのは何か。
分かる。明瞭に全てが手に取るように分かるが、私はこの愚かな言葉を口にするしかなかった。
「なぜだ?」

どうやら、憎しみでごった返す彼の心の中に私の言葉が落ちたところで、何の音も立てないらしい。

彼は、無言で私の方に歩みを進める。
私は……ひと思いに襲いかかってきてくれた方が、楽なんだが。
君にただの鉄屑にされた方が、遥かに楽だ。

「君と……約束をしたのを覚えているかい」

「『また会おう』、と」

彼に生まれた一瞬の隙をつく。
胸の槍を抜き去り、そのまま遠くに腕を伸ばし。
ハッと我に返って避けようとした彼の体を。

私の胸の穴のすぐ近くに深く縫い留めた。

「これはこれは。こんなに近くに来てくれるなんて、嬉しいねぇ」
静けさに包まれ淀んだ空間。彼の喉がひゅう、と鳴る小さな連続音。耳もないのに、耳が堪らなく痛くなる。片腕では両耳があったとしても塞ぎ切れない。だから、飄々と駄弁り続けることしかできない。

まさか、私との約束を思い出してくれたなんて、夢にも思わなかった。だが、はしゃぐ時間も、抱き締める時間も、何もない。私がこの選択をしたからには、我々の未来はない。ここで、終わりだ。

「約束をしたこと、かなりしっかりと覚えていてくれたようだね。照れるねぇ。だが、君はこれでもう二度と、私とまた会うことは叶わなくなってしまった。本当、悪い子だ……」
私の体の硬い鉄板、彼の体の柔らかい輪郭が触れている。双方、槍に貫かれた部分から火花が散って、オイルが滴り、全てが軋む音がする。それらを少しも聴かないように、音を搾り出す。

今にも事切れそうな君の体が、私のどうしようもない空虚な胸の穴を塞いでいる。お互いのエネルギーの燈が急速に消えていくのを感じる。
この、身を削ぐような地獄が、早く終わってほしかった。
私よりも早く、彼を楽にさせてやってほしかった。

今、彼が私を見上げて、幼さの残る凜々しい顔で悲しく笑ったりしたならば。
そのまま、彼が息絶えてしまったならば。
私は一体どうなってしまうのだろうか。

怖かった。
君のいない世界が。
私は、ずっと、君と在りたかったのに。

世界のことなんてどうだっていいが、私は最も愛する旧友が切に望んでいたであろうことを成し遂げられるのだ。それも、私にしかできないことだ。それで、いいんだ。
君なら、自分を殺してでも世界を護れと言うだろう?あの、強かな瞳を私にむけながら。

パッチワークで継ぎ接ぎしたような酷い有様の心身。同じように、人の心も悪戯に何かに縫い付けたり解いたりしてみたりした。私の在り方は、独りよがりの縫い物そのものだった。

意識が白い瘴気を纏う。人間が、酸欠を起こすときというのは、こういう感じなのだろうと、ぼんやりと考える。

私が、君の心の弱く脆い部分のほつれを直してあげることができていれば、こんな結果にはならなかったのだろうか。
それだけが一点……針で柔い肌を刺して、赤い血がぷつりと染み出したように痛かった。



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