Bitter

2023.02.07



「時田君。ちょっといい?」
午後3時。一日の疲れが徐々に顔を出す頃、彼を研究所の外に連れ出した。
「あっちゃん、どうしたの?仕事の話?」
後ろから草食動物のようなのそのそとした足音と、聞き慣れたテノールの声がする。
「ずっと働き詰めでやっと時間ができた同僚を連れ出して、わざわざ仕事の話すると思う?」
「ああ〜そっかあ。ありがと、あっちゃん」

研究所の敷地内にある、木製のベンチ。そこにそっと腰を下ろすと、ワンテンポ遅れてベンチが軋む。いや、撓むと言った方が正しいかもしれない。2月だというのに、月をひとつ間違えているかのような小春日和だ。それに、隣からもぽかぽかとした熱気を感じる。私は思わず、ほっと小さく息を吐いた。

「2月だと思えないくらいあたたかいわね」
「本当だね。うっかり寝ちゃいそう」
彼の大木のように太い脚が、ストッキングに包まれた私の脚に軽く触れると、申し訳なさそうに離れていく。私はただその様子を横目で盗み見ていた。
「あの」
彼の顔に目をやると、その表情はにへらと緩みきっていた。緩みきっているのは、お腹とか、顎の下のお肉とか、他にも色々あるけれど。
「そ、それってもしかして……チョコかな」
大食いの彼には、小さな紙袋の存在さえ隠し通すことはできない。
「そうよ」
私はきっぱりと告げた。
「その、ぼ……僕宛て?」
「もちろん」
すぐさま紙袋を彼の胸元に押し付ける。
「えっ」
彼はそれを受け取りながら不思議そうな声を上げた。
「なに?」
「いつものバレンタインと違う」
彼は不信感は抱いていないものの驚いているようだった。
「あっちゃん、バレンタインは毎年ファミリーパックのちっちゃいチョコ買ってみんなに配ってくれてたじゃん。なのに今年はこんな一対一で……」
「時田君にはいつもお世話になってるからよ」
お世辞ではない。本当のことだ。
「……うわ〜!」
彼はもちもちとしたクリームパンのような大きな手で顔を覆った。みるみるうちに耳が赤くなっていく。
「ありがとう、あっちゃん……」
手を口元に持っていき、こちらをちらりと見る彼の目元は耳と同じ色をしていた。

「開けていいかな」
「ん」
午後3時だ。開けてからのおやつタイムパターンは把握済み。いや、おやつに食べてほしいからこの時間に連れ出したというのもある。
彼が紙袋からピンクのタータンチェック柄の箱を取り出し、間髪入れずに蓋をぱかりと開ける。
「おお……!」
彼の黒真珠のような瞳に映るのは、ココアパウダーをまぶした4つの小さな丸いチョコレート。それはアルミカップで十字に区切られた空間にころりと佇んでいた。
「トリュフチョコだ!」
「生クリームとチョコで簡単にできるから作ってみたの」
「絶対美味しいやつ!」
「溶けてなくてよかったわ」
「美人で仕事もできてチョコも作れるだって!?あっちゃん凄いよ!」
踊り出しそうなくらい興奮している彼の様子に思わず吹き出しそうになったが、ギリギリで耐えた。
「じゃ、じゃあ、いただきます」
彼のことだから4つ全部一気食いなんて造作もないと思っていたが、彼は私に意外な行動を見せた。
彼は白い歯で薄くチョコを削り取るように、少しずつ、少しずつ食べ始めたのだ。
「おお、まろやかで甘い。凄く美味しいね」
いつもの彼らしくないなと驚いて、なかなか言葉が出てこなかった。
「……びっくりした。一気に食べないのね」
「うん?そうだよ」
「てっきりすぐ食べちゃうのかと思った」
「全部食べたいくらい美味しいけど」

「これを完食したら、あっちゃんがすぐどこかに行っちゃう気がして」
だからゆっくり食べてるんだよ。
彼は寂しそうな顔で言った。

私は言葉が見つからず、再びチョコを口に運ぶ彼をただ見つめていた。
ゆったりとした時間は、チョコの甘い香りとともにもたらされる。
チョコが、少しずつ彼の口に消えていく。
一つ目。
私はこの時間が好きだ。
二つ目。
なのに、この時間が……。
三つ目。

……どこか煩わしい。

「時田君」
「ん?」
「貴方、本当に子供ね」
「え」

ベンチから立ち上がり、彼の目の前に立つ。いつもより低い位置にある彼の強張った顔を見下ろしていたら、何かがふつふつと湧き上がってきた。
「さっさと食べて、私が早く仕事に戻れるようにしようとか考えられないわけ?時田君の仕事だって、ずっと穴開けておけるような悠長なものじゃないでしょう」
「あっちゃん……」
「寂しいから相手を引き留める?笑わせないでよ。相手のことを顧みず、自分がしたいからそうする。それは子供の考え方そのものなのよ」
「ごめん」
激情に任せて彼の手から箱をひったくり、蓋をし、紙袋に入れる。
「まずその子供っぽい頭をどうにかしなさい」
彼の唇から、あ、と大部分が息で構成された声が漏れる。
「じゃ」
私は踵を返して研究所へ歩き出す。
「あ、あっちゃん!」
止めるつもりはなかったのに、脚が固まったように動かなくなった。
「確かに僕の考え方は子供じみてるよね。まあ、その子供みたいな奔放な思考が、仕事に活かされているわけだけど……そのせいであっちゃんに嫌な思いをさせてしまっている。年齢に伴った考えもできるように、頑張って直していきたいと思うよ」
振り返って見た彼の顔は、既に強張ってはいなかった。
「チョコ作ってくれてありがとう」

「来年も作ってくれたら嬉しいな、なんて」

私は無言でその場を後にした。



私はすぐに仕事に戻らなかった。
研究所のトイレのドアに体を滑り込ませ、鏡の前に立ち、そこに映る私を見る。その瞬間、思わず顔の前で二つの握り拳を作って顔をきつく歪めた。

なんでなの。
なんであんなに酷いことを言ってしまったの。
なんで私はこんなに素直になれないの。

握り拳を解き、両手で頭を抱えて深い息を吐く。

本当は、全部全部愛おしい。
だらしない体型も、耳に心地よい声も、すぐに感謝の気持ちを伝えてくれる優しさも、少し初心なところも、ころころと表情が変わる顔も、私への好意を隠さないところも、爛々と輝く瞳も。全部。全部愛してる。彼がいる全ての瞬間を愛してる。
何でも呑み込むように食べる彼が、私との時間を丁寧に味わうように大切にしてくれたのが嬉しかった。
彼を子供だと言ったのも、粗探しのようなものだった。心の中では、チョコを完食されてしまったら、好きが溢れて止まらなくなってしまう気がして、怖くてストップを掛けた。彼に呑み込まれてしまう気がして。いや、私は既に彼の腹の中だ。
来年も作ってくれたら嬉しいな、なんて。
そんなこと言われなくても、毎年、いや、毎日作ってあげたい。ずっと、貴方のそばにいたい。

本当は、もっと自分をさらけ出したい。なのに、なぜかできない。もどかしい。もう一人の私のように、自分の気持ちに素直になって、色んな姿で自由に彼の空を飛びたいのに。

なんで、私ってこうなの。

『素直じゃないんだから』
もう一人の私に、笑われている気がする。
「……うるさい」
悪態をつきながら、紙袋ごとゴミ箱に捨てようとしたけど、手が止まってしまった。
私が彼を好きな気持ちは、紛れもなく本物で、それを蔑ろにしたくない。
私は紙袋から箱を取り出し、蓋を開け、一つ残ったチョコを摘まみ上げた。
これはきっと、私の心。
いつか、ちゃんと素直になれたら。
そう思いながら、一口でチョコを頬張る。
歯で噛み砕くと、彼の言った通りまろやかな甘さが口の中で広がった。
でも、ビターチョコレートなんて使っていないのに、なぜかほろ苦いような気がした。



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