遺作
2024.06.16
起きて、飯を食い、薬を飲み、日銭を稼ぎ、買い物に出て、写真を撮り、眠る。それらのうちひとつが欠け、ふたつが欠け、全ての境目が暈けていく。そんなことを一番よく知る自分を騙し続ける日々が続いていたが、ついに私はベッドから起き上がることすらできなくなった。
部屋が、白んで冷えた光で満たされている。今は、早朝なのか、深夜なのか。ここに磔になってどのくらい経ったのかすら分からない。枯れて頭を垂れる向日葵のように、明るい空を見上げる気力さえ残っていない。
殺風景な部屋の空気が重くのしかかられているようにも、くたびれた硬いベッドがどこまでもせりあがってくるようにも感じられる。自分がまだ息をしているのか分からなくなるほど、この軽く、痩せた体は今にも砕けそうだった。
やっと気付いた。私は、寂しいんだ。ずっと前から。そう。ずっと。
……誰だ?
洞穴のような目をやっとの思いで動かす。
黒いスーツに身を包んだ見知らぬ男。死そのものが人の形を成したような、異様な風体。彼は、ベッドの傍らのサイドテーブルに腰掛けて、手を組み、こちらを見つめていた。ずっと一人で住んでいるこの部屋に、誰かが訪ねてくるなんて、本当に驚くべきことだ。
死神、だろうか。どうやらお迎えが近いらしい。
神様にわざわざこんなところまでご足労いただかなくとも、私はこうして、何もかもを悟っているのに。
彼は、ジャケットの懐から煙草を取り出し、私に差し出した。
煙草か。病に冒される前、酒とともに嗜んでいたことを思い出した。最後ならば、別に構わないか。
「……ありがとう」
掠れてはいるが、まだ声を出すことができてよかったと思った。
彼は煙草を一本手に取り、私の唇に咥えさせると、火を点けた。
あたたかい炎だ。
息をするのもやっとではあるが、指を添え、喉を動かして、煙を肺いっぱいに取り込む。
ああ。美味い。
銘柄はよく分からないが、この一本。今までのものとは比べものにならないほど、格別だ。
煙草から唇を離し、ゆったりと煙を吐き出す。
私の手が戦慄いているのを見て、彼はすぐに私の煙草を持つ手を支えてくれた。
あたたかい手だった。
彼は私が一息吐いたのを確認してから、自身も一本煙草を咥え喫煙した。オレンジ色の光が彼の額の皺を浮かび上がらせて、うねる煙がスーツの黒に溶けていく。
彼が、私の方に静かにもう一方の手を伸ばす。
衣擦れの音。
私の骨張った手をしっかりと包む無骨な手。
この部屋で、私の他の、命の息吹を感じることなど、いつぶりなのだろうか。
あたたかい。
氷のように冷えた孤独に浸かって凍みた私の心は、溶けるどころか、灼け焦げてしまいそうだった。
……今、この瞬間を残しておきたい。いてもたってもいられなくなった。
天国まで持っていく気概で枕元に置いていた、私のカメラ。
私は前よりずっと重く感じるそれをやっとの思いで持ち上げ、しっかりと持って構えた。
少年だった頃の思い出。
部屋で一人本を読み耽っていた昼下がり、ふと、外を見た。
四つのセクションに区切られ、ガッシュを塗り重ねたように透き通る青の最中には、水を敷いて滲ませたように白い雲が浮かんでいた。
顔料が紙の繊維に染み込んでできた模様のように予想もつかなくて、ありふれているように見えて、特別で、一つとして完全に同じものはない。
私もこの窓のように、自分が惹かれてやまない瞬間を切り取って見たくなったのだった。
職を転々とし日銭で食いつなぎながら、あらゆるものの写真を撮った。私は、自分が特別だと感じるものを記録し続けてきたが、私個人は何か特別な才能があるわけでもない。名の知れた者からまだ名も無き者まで、表現者は、この世に掃いて捨てるほど溢れている。私も表現することに魅せられ、命を燃やしたが……人間としては無価値で、世間から無言で掃き捨てられても仕方のないような身だ。
だが、私には写真しかなかった。
この命が掃き捨てられ、音もなく堕ちても、私が切り取った世界が後世に在り続けるという事実。それが、いつでも私を掬い上げてくれた。
彼が、煙草を口元に寄せながら、私をまっすぐに見守ってくれている。
息をするのを忘れないように努め、今だけ、息を止めて。
……シャッターを切った。
これが、私の最後の作品となる。
私と彼がこの場にいなければ生まれなかった奇跡。
死の淵から両脚をだらりと投げ出してはいたものの、私の両手には幸福にも、まだカメラが握られていた。私は、幸福だった。
彼の指がそっと涙を拭う。気付けば私は泣いていた。
ここで終わるのは、悲しくはないよ。私が望み、私が歩んできた道なのだから。
ただ、久しく感じていないような、熱い喜びを感じた自分を見て、最後の最後に、どうしようもなく救われた気持ちになったのだ。
空っぽの心の中に、こんな情熱があることすら忘れていた。
誰にも泣き言を言えない人生だったが、私は……心の奥底では、誰かに見つけてほしかったのだ。
私が築いた、小さく、細くたなびく煙のような一つの歴史を。
彼もまた、歴史に刻まれるだろう。
孤独な写真家の儚い歴史を見守った、一人の証人として。
彼が、私が過ごしたありふれた日々、数多くの写真、ひしめくような寂しさ、最後に感じた素晴らしい喜びを。静かな眼差し、その全てで覚えていてくれる。
彼は私の、一人の写真家としての最後を尊重してくれた。
「ありがとう」
それだけを伝えた。心からの言葉は、自分でも驚くほど張りのある声となって現れた。
私の人生の幕が下りるそのとき、煙の向こうに、彼の優しげな表情が見えた気がした。
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SCP-4999 - Someone to Watch Over Us(私たちを見守るもの)
by CadaverCommander
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